1840年から42年まで続いたアヘン戦争の主戦場は中国でしたが、台湾にも飛び火のような形で戦闘が行われました。基隆の戦い、ネルブッダ号事件などとも呼ばれ、中国側では大安之役とも呼ばれています。
1841年8月、イギリス船籍の輸送船ネルブッダ号が台湾北部の基隆付近を航行します。この時、ネルブッダ号が基隆を砲撃したとも言われていますが、いずれにせよ陸地に接近し過ぎて座礁し、襲撃を受け、ネルブッダ号に乗っていた者の多くが溺死または戦死します。そのほとんどがインド人だったそうです。生き残った者たちは徒歩で台南まで歩かされ、そこでしばらく幽閉された後、斬首されるという運命を辿ります。200人以上の乗船者のうち、生き延びたのは2人だったと言います。
また、1842年3月にはアン号が同じような場所で座礁し、正確に何人が乗船していたかは分からないのですが、57人が捉えられ、その大半が道光帝の命により斬首されるという運命を辿りました。獄中死した人も少数おり、8人が生き延びています。中国人の乗員が1名おり、その人物は自分の意思で台湾に残ったとされています。
二つの船の乗員は合わせれば300名近くに上りますが、生き延びた人が僅か11名と極めて少なく、凄惨な様相を推して知ることができるかも知れません。
1841年の10月にイギリス戦艦が基隆沖に現れ、1人100ドルの身代金と交換にネルブッダ号の乗員の引き渡しを求めますが、生き延びた者は台南で幽閉されているということを知り、基隆に砲撃をしかけ、同地の砲台を多数破壊して香港に引き上げたとされています。私の個人的な印象ですが、ネルブッダ号が輸送船であったことを考えると、敢えて基隆で砲撃をしかけると考えることは少々不自然に思えます。或いは1841年のイギリス戦艦の砲撃と記録や記憶が入り混じり、ネルブッダ号が砲撃した後に座礁したというストーリーに成り代わったのではないかという気がしなくもありません。
1842年10月、既にアヘン戦争が終結した後のことですが、イギリス軍将校が台湾に訪れ、書面でネルブッダ号とアン号の生存者の解放を要請しますが、正式な文書ではないということを理由に台湾の行政サイドから文書の受け取りを拒否され、当該のイギリス人将校はやむを得ず引き返しています。後にイギリス側の要求で当時の台湾行政官2人が処罰を受けますが、イギリス側にばれないよう、極秘裏に放免しています。
以上のような出来事は、アヘン戦争全体の流れの中ではサブストーリーのようなものですが、欧米の足音、ウエスタンインパクトが確実に台湾にも迫ってきていたことを示すものと言えます。中国が瓜分されるという危機感が持たれる中、台湾がイギリスなりフランスなりアメリカなりに奪われるということは予見可能な範囲だったようにも思えますが、実際に台湾を奪ったのは新興国の日本帝国でした。日本統治時代はもう少し後になりますが、そのような変遷を経て台湾は独特の歴史的な経験を歩むことになります。