台湾近現代史10 大甲西社抗清事件

朱一貫事件を経て清朝は台湾の支配をより確実なものにしていこうと企図しますが、原住民の激しい抵抗に遭います。原住民は部族や集落ごとにバラバラですので、清朝支配に服する集落とそうでない集落がまだら模様のように存在していたようです。

1731年の末ごろ、台湾中部で生活していた部族が蜂起し、役所や漢民族の住居を襲撃し、多くの漢民族の人々が逃走せざるを得なくなるという事件が起きます。

翌年、台湾府知府の劉という役人が功名を焦り、事件とは関係のない、既に清朝に服している原住民から5人を引っ張り出し、事件の罪を問い斬首します。このことで各地の原住民が激昂し、大規模な反乱事件へと発展します。原住民の心情を考えれば当然のことと言えますし、蔡英文さんが原住民に対して謝罪したのは、このような過去の弾圧を踏まえてのことになります。

清朝は鎮圧軍を派兵しますが、服属する原住民と反乱する原住民とを相戦わせるという戦略を採ります。『セデック・バレ』の霧社事件と基本的な構図は同じと言ってもいいかも知れません。

最終的には清朝の勝利に終わり、反乱した各地の長が投降。裁判が開かれ、多くが処刑されるという結末を迎えます。

現代では、この事件を境に原住民の人々の勢力が衰退し、経済的にも疲弊していったと説明されることが多いようです。

清朝はその後、台湾経営には消極的な態度を示し、漢民族の移民にも制限をかけ、明の遺臣を名乗る者が出ない以上は、なるべく放っておくという政策を採るようになります。しかし、なかなかそう簡単には行かず、その後もいろいろ事件が起きてきます。

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