台湾近現代史8 清の版図に組み入れられる

鄭経の死後、台湾の鄭家王室内部で紛争が起こります。鄭経は聡明なことで知られた長男の鄭克ゾウを摂政に指名していましたが、次男の鄭克塽を擁立するグループがその地位と地位の継承者の証である印璽を譲るように迫り、長男は自殺したとも殺害されたとも言われています。いずれにせよこのクーデターで次男グループが鄭家王室の実験を掌握することになります。鄭政権が滅亡する少し前のことですから、政権の末期の血なまぐさい感じは非常に悲劇的なものに思えます。

鄭経の死後、清朝では元々鄭芝龍に仕えていた施琅を台湾攻略の総司令官に任命します。施琅という人は鄭成功から味方するよう誘われ、断った結果、家族を皆殺しにされたという過去を持っており、そのため、鄭氏の台湾攻略には個人的にも強い動機を持っています。

澎湖諸島を攻略して鄭家軍が台湾に撤退した後、鄭氏台湾より降伏の申し出があり、施琅はそれを受け入れ、鄭氏は爵位を授けられます(しかし、鄭克塽以後、爵位の継承者は現れず、鄭氏は事実上終了します)。

その後、200年にわたる清朝による台湾支配が始りますが、福建省からの移民も多く台湾に入ってきます。現代で言われている「本省人」とはその多くがこの時代に移民してきた人たちの子孫だと考えられています。客家の人々もこの時代に入ってきたようです。移民してきたという性質上、それ以前から台湾で暮らしていた原住民とは利害相反が起きやすく、原住民の人々は次第に山岳部へと追いやられていきます。

また、原住民の人々には当時は紛争が起きれば相手の首を斬るというのがある種の慣例になっていたため、そういう事件もいろいろ起きたようですが、私が知っている客家人の方からは「祖父母の代では実家が原住民の生活圏に近く、もめ事があれば襲撃されるので、友好的な関係を維持するためにたいへん努力した」と聞いたことがあります。

清朝の台湾支配を成功していたと見るか、成功していなかったと見るかは、台湾が中国の一部か、それとも独立した国家か、或いはその帰趨、帰属はまだ決まっていないと見做すかという現代の国際政治に直接結びついてくるデリケートな話題ですが、清朝が支配した時代には次第に台湾の華人にも科挙を受験する門戸が開かれたり、19世紀の後半には鉄道施設の計画が立てられるなど、清朝が必ずしもほったらかしにしていたわけでもないようです。その一方で、全島が完全に施政下にあったかという点にも疑問が残るようです。

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