台湾近現代史7 鄭経‐台湾の王

鄭成功が39歳の若さで亡くなると、鄭成功の弟の鄭襲と息子の鄭経が後継者争いを起こします。弟か息子かという相続関係のもつれが起きたわけです。

鄭経は父親から厦門の統括を任されていましたが、鄭襲は台湾本当を任されており、鄭経は陳永華の協力を得て台湾に侵攻し、鄭襲の軍を破っています。その後鄭襲は厦門に監禁されますが、命の危険を感じて脱出し、清に降伏しています。

血なまぐさい骨肉の争いで政権を奪い取った鄭経ですが、オランダ人などからは「台湾の王」と呼ばれており、その権威・権力は相当に強かったようです。

鄭経が台湾統治を進めていた時、中国ではまだ各地で反清の抵抗が続いており、鄭経はそれら中国大陸での反清運動に加担しています。特に三番の乱と呼ばれる、呉三桂などの勢力が各地で反乱を起こした時には目覚ましい成果を挙げ、一時的にとはいえ江南地帯はほぼ全て鄭経サイドの手中に収まるところまでに勢力が成長します。ただし、同床異夢なところがあり、反清の軍には統一性が欠けていたため、康熙帝の発揮軍が反乱勢力を各個撃破することで、やがて反乱は沈静化していくことになります。鄭経も軍を退くことになります。

三番の乱で特に目立った活躍をした呉三桂はもともと明の遺臣だった人ですが、明の滅亡の直接の原因となった李自成の乱で北京にいた家族が殺されており、李自成討伐のために一度は清に下り、明の遺臣と明皇帝の血縁で構成された南明討伐で功績を挙げた人ですが、途中で自分のしていることが本末転倒になっていることに気づいたのか、清にはむかって三番の乱を起こしたわけが、旗色が悪くなった後も転戦を続け、亡くなる同じ年に自ら皇帝を宣言します。呉三桂が亡くなった後、孫が皇帝を継ぎますが、清軍に追われ最期は自ら命を絶つという運命を辿っています。これと同じ年である1681年、鄭経も40歳の若さで逝去し、次男が政権を継ます。

中国大陸平定の仕事をやり終えた康熙帝は、いよいよ台湾への進撃を決心し、清朝による台湾の版図の組み入れが始まることになります。

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