江戸時代初期、まだ鎖国政策が始まる前、日本の貿易商はアジアの各地に進出しており、台湾もその進出先の一つでした。オランダ人が台南にゼーランディア城を築いて拠点とし、寄稿する商人の取引に10パーセントの関税をかけるようになります。浜田弥兵衛という長崎から来た商人がこれを拒否。オランダサイドではピーテル・ノイツという人物を同地の行政長官に任命し、日本に渡り徳川家光への謁見を試みます。要するに関税10パーセントを請願し、徳川家光から許可を取れば、弥兵衛のような日本人商人はそれに従わざるを得ないと踏んだわけです。
それを知った浜田弥兵衛は原住民十数名を連れて帰国し、彼らとともに江戸へ行き、こちらも徳川家光への謁見を果たそうとします。台湾(当時は高山国という名称で認識されていた)の住民は既に将軍への服従の意思を示しているので、関税は免除されてしかるべきという論法を組み立てようとしたわけです。弥兵衛は非公式ながら謁見に成功し、お土産の品をいただいた上にノイツの謁見妨害にも成功します。
これによって浜田弥兵衛は意気揚々と再び台湾に渡りますが、妨害を受けたノイツが激怒して弥兵衛を武力解除して台湾への渡航禁止の挙に出ようとします。ところが弥兵衛がノイツの掴みかかって拘束し、オランダ人が弥兵衛を拘束するものの、ノイツが人質にとられているので手が出せないという事態に立ち至ります。
双方歩み寄り、双方が別々に人質を乗せた船で長崎へ行き、長崎でそれぞれに人質を解放することで合意に至ります。ところが実際に長崎についてみると、弥兵衛の側からすればホームですので強気に出てノイツを監禁するという展開を見せます。
その後、オランダ側から使節が訪れてノイツは解放されますが、弥兵衛の雇い主である末次平蔵は獄中で謎の死を遂げたとしており、オランダとのもめ事を嫌った老中が一計を案じたのではないかとの憶測もあります。
いずれにせよこのような複雑経過を辿って一件落着しますが、その後オランダ人は鄭成功によって台湾を追われることになりますので、そもそもの関税10パーセントというのもなんとなく虚しい話だったようにも思えなくもありません。
浜田弥兵衛は日本統治時代に入ると軽く功労者扱いになり、従五位の官位が贈られ、顕彰する碑も立てられましたが、国民党の時代になって碑文が変えられており、浜田弥兵衛の情報は全然残っていないようです。
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