羽田孜内閣を作った後、小沢一郎は社会党抜きの統一会派を構想し、社会党が激しく反発します。非自民で構成されていた与党ですが、社会党が抜ければ少数内閣に陥ることになり、社会党が内閣不信任決議案に賛成する姿勢を見せたことから、一旦羽田が総辞職し、禊を済ませて改めて羽田首班内閣を作ることで小沢と社会党が合意します。
ところが羽田総辞職して首班指名選挙が行われる段になり、自民党と社会党が連携して村山富市を擁立します。羽田再選はほぼ不可能の情勢となり、小沢一郎はかつて自民党時代に担いだ海部俊樹を擁立し、自民党の票が分裂することを期待しますが、結局村山富市が過半数を制し、国民が唖然とする中、村山富市内閣が登場します。
村山内閣の時代には阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件が同じ年に相次いで発生し、バブル崩壊の後遺症がわりとはっきりと見えてきた時期とも言われ、「世界で一番豊かで安全な日本」という神話が崩れていくというか、日本はそれ以前の箱庭のような世界で楽しく暮らしていればいい時代が終わり、何かもっと違う厳しい世界へと入っていくのではないかという何とも言えない暗い気分が世の中を覆います。
村山富市内閣の時代の著名な仕事としては、戦争に対する謝罪と反省を述べた村山談話が閣議決定されたことと、「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」が国会で行われたことと言えるかも知れません。村山談話は現在に至るまで踏襲されており、そういう意味では今も日本国の正式な意思の表明として今も効力を持っていると言えますが、村山首相は更なる賠償については「サンフランシスコ条約の他、その他の二国間の条約などで解決済み」としています。村山首相はビッグピクチャーとして日本は悪かったので謝罪と反省をするものの、個別具体的な何が悪かったのかについては議論しないという姿勢で自民党と社会党とのバランスを取ろうとしたのかも知れません。
村山首相が個別具体的なことについては議論しないという姿勢を取ったことは、個別具体的な議論があり得るということを暗に示したとも言え、私個人としては一連の出来事によって「日本の戦争の責任」とは何を指すのかについてより具体的な議論ができるきっかけになったと前向きに評価することもできないことではないと思います。漠然としたイメージで日本が悪かったとか悪くなかったとか語るよりは具体的に何がどう問題なのかを考えるきっかけにはできたかも知れません。左右のどちらも関係なく、何がどう悪かったのかを議論することは、悪くなかった部分も明らかにできるとも言えますから、必要なことのように思えます。
村山富市内閣は経済が好転しないことを理由に総辞職し、橋下龍太郎内閣が登場することになります。橋下龍太郎内閣では、社会党が社会民主党と党名を変更し、やがて連立からは遠ざかることになり、自民・公明の連立内閣が育っていくことになります。