宮澤喜一内閣‐小沢劇場

海部俊樹首相の退陣が決まると、宮澤喜一、三塚博、渡辺美智雄が後継首相に名乗りを上げます。竹下派が支持した候補者が勝利するという図式がほぼ固定化していましたので、竹下・金丸・小沢ラインの小沢一郎がそれぞれの候補者を呼び出して面接するという強気な手段を採り、候補者としては支持してもらわなければならないので、不承不承それに従います。小沢一郎は東京都知事選挙で自民党公認候補が落ちたことの責任をとって幹事長を引き、当時は竹下派代表代行という立場でしたが、面接してもらった宮澤喜一氏は「大幹事長」とまで持ち上げます。

宮澤さんのようなプライドの高い人が腰を低くし土下座するような思いで小沢と対したことが功を奏したのか、竹下派は宮澤支持を決め、宮澤喜一内閣が登場します。

この時代、バブルの崩壊現象が顕著に現れ始めていたため、経済通の宮澤氏はその要因を住専の不良債権にあると見極め、住専に公金を注ぎ込めば解決すると踏みましたが、当時はマスコミが反対の大合唱を始めます。日本銀行の総裁が資産インフレ潰しに動いて「平成の鬼平」と称えた時代です。資産インフレの旗振り役だった住専に公金を入れるとは何事か、という感情優先の報道が続き、宮澤喜一は住専救済を諦めます。

当時、海部俊樹首相の時代に一度潰された「政治改革」(その実は選挙制度改革)が注目されており、田原総一朗さんが宮澤首相にインタビューした際、田原総一朗から「政治改革はやるんですね?」と念押しのような質問をされ、「やります」と答えたことが言質となってしまい、政治改革関連法案が廃案になると、マスメディアは一斉に「宮澤首相は嘘つきだ」と叩き始めました。当時は自民党の政治家を叩けば番組は成立するという雰囲気だったようにも思えます。

小沢一郎のその波に乗るかのように、政治改革に失敗した宮澤喜一首相不支持を表明。『改革フォーラム21』という竹下派内派閥を作り出し、竹下登との対決姿勢を鮮明にします。宮澤喜一氏にしてみれば、竹下派内のお家騒動のダシに使われているようなもので、たまったものではなかったでしょう。

想像ですが、小沢一郎は竹下・金丸に首相就任を薦められ、それを固辞して以来、竹下からあんまりかわいがられなくなったので、遅い反抗期に入ったのではないかという気がします。これは小沢ウオッチングを続けた結果得た感触に過ぎませんので、本人は否定するでしょうけれど、小沢一郎の性格を考えると、そのように考えるのが最もしっくりくるように思えます。

当初は小沢一郎だけが周辺と一緒に騒いでいるだけだと見られていましたが、あろうことか羽田孜・奥田敬和などが合流し、衆議院竹下派は真っ二つという様相を呈します。竹下登と小沢一郎の間には「参議院には手を入れない」という約束があったとも言われていますが、竹下登は参議院竹下派の支持を確保することで、小沢を圧倒します。小沢は一機に追い詰められ、竹下登が約束を破ったと思ったかも知れませんが、竹下の方からすれば派閥に反抗しておきながら紳士協定が成立すると思った小沢が甘いのだということになるのだとも思えます。

この時期に、細川護熙が日本新党を立ち上げ、世間の注目を集めます。

小沢・羽田グループは宮澤内閣不信任決議案に賛成し、自民党を離党。宮澤内閣は総辞職ではなく解散総選挙の道を選びます。世論は大いに盛り上がり、小沢・羽田・細川を改革派と持ち上げて、自民党は過半数を獲得することができず、宮澤首相は引責辞任することになります。ただし、離党組を除いた自民党議席は改選議席より1議席上回っており、善戦したのではないかとも思えます。

選挙後、過半数を確保する政党がないままに、小沢一郎主導で社会党を含む非自民を糾合した細川護熙首班連立内閣が登場します。この時、羽田は騙されたと思ったかも知れません。小沢一郎が政治の主役だった時代であり、今から振り返れば確かに小沢は絵になっており、小沢劇場にみんなが振り回された時代とも言えそうです。


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