石橋湛山は東洋経済新報を基盤にリベラルな経済政策を主張し、日本の植民地主義にも反対で、植民地を広げるよりも貿易で繁栄を追及すべきとする「小日本主義」と呼ばれる思想を持っていた人だったと考えられています。
時代が戦後に入ると第一次吉田茂内閣で大蔵大臣を務めますが、後に公職追放されてしまいます。石橋湛山のような軍拡否定主義者が公職追放されることに疑問が残ってしまいますが、東京裁判では検察側「高橋是清軍拡主犯説」みたいなものを否定する証言をしたり、戦時補償債務でGHQと対立したりというのがあったので、そういうのが陰に陽に影響したのかも知れません。
戦時補償債務問題では、石橋湛山は政府がこつこつ戦争によって生じた国民や企業への損害を補償していきたいと考えていたようなのですが、連合国サイドでは日本人を甘やかすんじゃねえという考えがあったようです。
後に占領が終わり、公職追放が解けると鳩山一郎内閣に通産大臣で入閣します。吉田茂の政敵に入閣したことから、石橋湛山の公職追放には吉田茂が絡んでいたのではないかという噂もあるようです。
鳩山一郎時代には、中国やソ連と「等距離」な付き合い方を模索していたようですが、当時のアメリカはそういうのはあまり気に入らなかったようです。朝鮮戦争が停戦して間もないころですし、停戦はしたものの終戦ではないので、国際政治の観点から言えばアメリカはソ連・中国とは潜在的な敵同士ですので、そういう意味でアメリカは石橋湛山が気に入らなかったようです。
鳩山一郎の次の自由民主党総裁選挙では、アメリカ一辺倒主義の岸信介と石橋湛山で争いますが、第一回投票では岸信介が若干の優位で一位、石橋湛山が二位だったものの、決選投票では石橋湛山が三位の石井三次郎と同盟して石橋湛山が勝利します。角福戦争なみのドラマチックな展開です。
ただ、直後に病床についてしまい、国会答弁にも立てない容体になってしまったことから65日で退陣してしまいます。石橋湛山については、高い見識を持っていた人という印象が強いですが、その理由としてはこの時の引き際の良さも影響しているかも知れません。
石橋湛山の次は岸信介が首班指名を受けることになります。
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