幣原喜重郎内閣‐平和憲法を書いたのは誰か?

終戦直後に登場した東久邇宮稔彦王内閣は、当初こそ皇族首相による指導力を期待されていましたが、かえって共産主義革命を煽りかねないという不安が頭をもたげ、短命で総辞職します。続いて木戸幸一主導で首相指名されたのが幣原喜重郎でした。久しく政界から遠ざかっていましたが、過去の親英米協調外交路線が評価されての政界復帰となります。

幣原喜重郎首相時代、やはり最大の注目点は新憲法です。新しい憲法は果たして誰が書いたと考えるべきでしょうか。当時GHQに示された松本烝治案がマッカーサーによって拒否され、マッカーサー三原則に基づいてアメリカ軍の法律チームが新憲法草案を書き、日本の議会で多少の修正が行て現行憲法になったと言われていますが、一方でマッカーサー三原則の一つである非武装平和主義は幣原喜重郎の方からマッカーサーに提案し、それをマッカーサーが受け入れて同三原則が作られたとも言われています。

仮に幣原喜重郎が発案者であったとすれば、「アメリカ人が書いた憲法を押し付けられた」という歴史観は正しくないということになり、日本人が自発的に考え出した憲法だという議論をすることは可能です。ただ、一方で、国民の知らないところで幣原とマッカーサーが個人的に話し合って「密約」したとすれば、それをして日本人の総意と解釈することも難しいことのように思えます。更に言えば、マッカーサーの同意を得なければ自由に作れなかったという意味で、制限下に作られた憲法であることは議論の余地がないのではないかとも思えます。

一方、70年変更して来なかったことは日本人がその憲法に同意しているからだという議論があり、またその一方で、改正のハードルが高すぎて憲法が改正できないようにマッカーサーが仕組んだのだという陰謀論めいた議論もあります。

私個人の意見ですが、アメリカでは憲法の修正には議会の3分の2以上の賛成と4分の3以上の州の賛成を必要としていますので、日本の議会の3分の2以上の賛成と国民の過半数の賛成は必ずしもハードルが高いというわけでもないように思えます。日本がこれまで憲法を変えて来なかったことの背景には別の要因があるのではないかと思えます。

私個人の経験から言いと、アメリカ人はわりと天真爛漫ですので、そこがアメリカ人のいいところなのですが、あんまり細かいことは気にせず、憲法を書いたのはアメリカ人だが、それを保持し続けているのは日本人だから、日本人は自分の意思で現行憲法を使っているのだと思っている人が多いように感じます。一方で、中華圏の人は現行憲法には敗戦国の日本に対する懲罰的な意味が込められており、それを変更しようとすることは日本人が過去の反省を忘れる歴史修正主義だというように認識している人が多いように感じます。アメリカ人と中華圏の二種類しかサンプルがなくて申し訳ないのですが、中華圏の人とこの手の議論をする場合は相手が感情的に反論してくることが多いので、そういうことはなるべく議論しないようにしています。

永久平和の理想も確かに尊いものですから、現行憲法が悪いとは私は必ずしも思いませんが、現実と乖離している面があるのもまた確かかも知れません。法律に書いていないことは慣習なりコモンセンスで埋めていくのが法律の基本ではないかと私は思っていますので、安全保障や国際貢献に関しては必要に応じて対応することにして、わざわざ感情的な議論を引き起こす憲法改正のような手続きに出なくてもいいのではないかと私個人は考えています。

それはそうとして、幣原喜重郎内閣では第22回衆議院総選挙が行われ、それは婦人参政権もあるという画期的なものでした。その結果は日本自由党が第一党で、日本進歩党が第二党というもので、過半数を獲る政党はなく、幣原喜重郎は日本進歩党に近く、紛糾が生まれ、総辞職に至ります。幣原喜重郎の次は、いよいよ吉田茂の登場です。




コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください