米内光政内閣‐陸軍による倒閣

阿部正信内閣が当事者能力を失って総辞職すると、陸軍では畑俊六が後継首相として指名されるのではないかという期待が広がり、ある種の熱が生まれてきます。ところが昭和天皇は陸軍が日独伊三国同盟に積極的なことに不安を感じており、昭和天皇の意思によって海軍の米内光政が後継首相に指名されることになりました。

天皇が後継首相の選考に影響力を発揮することは立憲君主という性質上問題があり、本来であればそういうことはできないはずです。ただ、昭和天皇が人事に積極的な意思を示し、それが実現することは異例のこととはいえ、天皇の政治に対する影響力が非常に曖昧なものであったことが分かります。戦後、昭和天皇の戦争責任はどこまで問えるかという議論は無数になされましたが、制度上の権能と実際上の影響力に乖離があり、その乖離の程度には天皇以外の外的要因が働くことも多く、結果として真相が測りがたいという難しいことに至ってしまったという印象が残ります。

また、政党政治家に首相指名の話がいかなかったのは、昭和天皇や西園寺公望のような究極のエスタブリッシュメントが、政党政治家たちのことを、人気投票で選ばれるために嘘もつくし政権を獲るためには見苦しい陰謀も厭わず、白を黒といい抜けようとするレトリックを駆使することに疲れていた、或いは失望していた、「政党政治家は二流の人間のやることだ」という諦観に至っていたというようにも見えてきます。広田弘毅が首相指名される時、天皇は広田氏が名門の出身者でないことを不安に感じたというエピソードもあるようですが、当時のことですから、まだ、天皇と周辺には日本は究極のエスタブリッシュメントが寡頭政治をするのがちょうど良いと思っていたのではないかとも感じられます。もっとも、当時の気配であれば政党政治家が首相になれば陸軍なり憲兵なりに命を狙われる可能性が高く、危なくておちおち首相に指名できないという側面もあったかも知れません。

ヨーロッパではアドルフヒトラーがポーランドを分割占領した後、イギリス・フランスとも西部戦線で対峙していましたが、しばらくは双方ともに積極的な攻勢に出ることがなく、半年ほど事実上の休戦状態に入ります。米内光政はドイツとの同盟に懐疑的で、ヨーロッパで本当にアドルフヒトラーが勝つかどうか分からないという雰囲気の中、同盟締結に踏み切らないままでいましたが、ドイツ軍が国境の森林地帯を抜けてフランスのマジノ線要塞を後方から攻撃するという虚をつく電撃作戦で勝利し、早々にフランスが降伏したことから、陸軍部内ではバスに乗り遅れてはいかんということになり、とにかく非ドイツの米内光政を引きずりおろせという話が持ち上がって、畑俊六が陸軍大臣を辞任し、陸軍の総意として後任の大臣は出さないという挙に出たため、米内内閣は総辞職せざるを得なくなります。

陸軍という際限なき冒険主義者が軍部大臣現役武官制を盾にとり、日本という馬の鼻づらをあらぬ方向へと引きずり回す様子が見てとれ、知れば知るほどがっくり来ます。本当にこの時代の出来事はがっくりくることばかりです。

米内内閣の次は、近衛文麿が二度目の組閣を命じられることになりますが、この段階では西園寺公望は近衛にあまり大きな期待は持っていなかったと言われます。近衛は中国での「聖戦」を貫徹しつつ、日本を国家社会主義みたいな国にして、アメリカ様のご機嫌をとるという無理と矛盾に満ちた国策を進めようとし、やがて運命の太平洋戦争へと続いていきます。


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