阿部信行内閣‐当事者能力の喪失

平沼騏一郎内閣が「欧米の天地は複雑怪奇」として総辞職をした後、後継の首相選びは難航します。外交、日中戦争ともに手詰まりで出口がなく、西園寺公望は「(後継首相に誰がいいか)自分には意見がない」とまで言い出したと言われます。首相の成り手がいないという深刻な時代に立ち至った時、陸軍が阿部信行擁立に動き、消去法的に阿部信行が首相に指名されることになります。

阿部信行の出身母体は陸軍でありながら、皇道派にも統制派にも属しておらず、多少リベラルな面も持っていた人物とも言われていますが、外交でも日中戦争でも打てるべき手がなくなっており、始まった時から死に体だった感がぬぐえません。そのような人物を首相に据えざるを得ないほど、日本そのものが当事者能力を喪失していたのではないかとすら思えてきます。

阿部内閣時代にアドルフヒトラーがポーランドに侵攻し、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告をすることで、第二次世界大戦が始ってしまいますが、阿部はヨーロッパ情勢に対しては中立の姿勢を見せます。更に、行き詰まった外交を打開する目的で、外交権を外務省から内閣へと奪い取ることを画策しますが、外務省職員の強い反発を受け、こちらの方は頓挫してしまいます。

汪兆銘政権を相手に日中講和の可能性を探りますが、そもそもが蒋介石を抜きにした和平案ははっきり言って無理があり、蒋介石とのルートを確保しようとしなかった、またはできなかったということは、日中戦争解決が根本的に不可能だったことを示していると言えるかも知れません。

1940年1月、汪兆銘の側近が香港に逃れ、汪兆銘と日本との間に交わされている和平交渉が「売国的」なものであると暴露し、講和交渉がこれ以上不可能と考えた阿部信行内閣は総辞職へと至ります。阿部は総辞職にあたり「日本の国は陸軍とそれ以外に分裂している。ここを調整するのは想像していた以上に難しかった」という主旨の弁を残したと言われていますが、政治家や外交官がどれほど手を尽くしても軍が実力行使でちゃぶ台返しで既成事実を積み重ねていくという図式がもはや慣例化しており、シビリアンコントロールは喪失していたと見るべきですので、この段階で既に日本の命運は尽きていたと思えなくもありません。

歴代の首相の動きを見ているとかくも複雑怪奇なことが外国人に説明して分かってもらえるわけもなく、知れば知るほど暗澹たる気持ちになっていきます。阿部信行内閣の次はこれもまた短命な米内光正内閣が登場します。


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