第一次近衛文麿内閣‐支離滅裂

近衛文麿という人は、西園寺公望に政治家としての経験を積まされてベルサイユ会議にも参加し、将来の首相候補と目されて国民からの期待も大変高い人でした。しかし、知れば知るほど、一体、何を求めていたのか、何がしたかったのか、政治家としてどういう原理原則を持っていたのかさっぱりよく分からなくなってしまうところがあります。

就任直後に起きた盧溝橋事件では事態の不拡大を宣言していますが、軍の自由な裁量で仕える特別予算を組んでおり、本来であれば、政治家は予算を管理することで軍に対する文民統制が効いてくるはずなのですが、その予算を認めるということは、盧溝橋事件では現場で停戦合意が進む中で増派することを認めることにもなったため、結果として戦争の拡大を容認することになっています。

果たしてこの人は何を考えていたのでしょうか…。

ベルサイユ会議から帰った後、『英米中心の平和主義を排す』という論文を発表していることから、近代日本が伝統としていた英米協調路線に対しては批判的であったことが分かります。また、京都大学でマルクス経済学を学び、それに共鳴していたそうですから、自由主義経済ではなく、統制経済に可能性を感じていたらしく、彼が国家総動員法を制定することで、日本を統制経済下に置いたということも、私は統制経済には可能性は感じませんが、彼がそういう政治理念を持っていたことは理解できます。

英米協調路線を採らないのであれば、中国と連帯する大アジア主義なのかと言えば、必ずしもそういうわけではなく、有名な「爾後、国民政府を相手とせず」とする近衛声明を出して汪兆銘という傀儡政権を立てたことは、アジア連合やアジア連盟を目指すというよりは、単なる覇権主義の帰結にしか見えず、そうなると、盧溝橋事件の際の事態不拡大方針は果たしてなんだったのか、本音は一体どこにあったのか、さっぱり分からない、融通無碍としか言いようがありません。トラウトマン工作の失敗は、広田弘毅に責任があるのかも知れませんが、近衛が熱心だったというわけでもなかったらしく、不拡大方針を声明しながら拡大していくというのは、意味不明です。

近衛は第一次内閣のころから大政翼賛会的な新党の結成を模索しており、政友会と民政党が議会を二分する状況にも批判的であったに違いなく、新党によるある種の独裁的な状況を生み出すことを狙っていたフシがあり、そのように突き詰めると、ごく一部のエリートが国家を指導する国家社会主義体制を理想とし、対外的には対中敵視、対米対抗ですから、国際的に孤立した独裁国家でも作ろうとしていたのかと思えて来てしまいます。

結局は大政翼賛会的な政党を作ろうとしたことで紛糾し、第一次近衛内閣は総辞職という運命を辿ります。第一次近衛文麿内閣の次は、短命の平沼喜一郎内閣が引き継ぎます。平沼喜一郎の後も、阿部信之、米内光正が短命内閣に終わり、いよいよ運命の第二次近衛内閣へと事態は推移していきます。


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