第一次近衛文麿内閣が総辞職した後、後継首相に指名されたのは枢密院議長の平沼騏一郎でした。平沼騏一郎は司法界の出身ですので、政党政治家でもなければ軍人でもなく、また名門貴族でもない一味違ったタイプの首相と言えるかも知れません。
しかし、閣内では親ドイツと新英米で対立があり、近衛文麿を無所任大臣として起用している辺りには、ある程度、傀儡色の強い部分があったという印象も残ります。全体主義色の濃い国民徴用令もこの時に出されています。近衛文麿の体制翼賛体制には否定的でありながら、国民徴用令を出すというあたり、なんとも理解に苦しむところが残ります。半年あまりで潰れてしまった内閣ですので、さほどの仕事ができたとも言えません。
ただし、記憶すべき出来事はいろいろと起きています。日本の運命がいよいよ暗転するという時に、指導力を発揮した形跡は見当たりません。この時期にノモンハン事件が起きており、最近の研究ではソ連側の被害の方が大きかったことが指摘されていますが、それでもやはり大陸に於ける動員力の違いがはっきりした事件と言え、その後の日本帝国にとって重要な研究材料になったはずですが、結局はその教訓が生かされたとも言い難しというところです。
米英強調・反共・親ドイツという3つの要素が三つ巴になっていましたが、そこに独ソ不可侵条約という不測の外交的な爆弾が投下されます。この独ソ不可侵条約そのものがアドルフヒトラーのトラップのようなものですが、ドイツと提携しつつソビエト連邦に対抗するという基本的な軸が崩れて「欧州の天地は複雑怪奇」という言葉を遺して総辞職に至ります。
英米協調でありながらアメリカからは日米通商航海条約の破棄を通告されてしまい、本音は親英米でドイツの勢いを利用して防共という点では松岡洋右と共通項を持ちながらも対立しているなど、当時の政治家は支離滅裂感が強く、私にはこの段階ですでに日本政府は当事者能力を失いつつあったのではないかと訝し気に感じてしまいます。
平沼騏一郎が退陣した後は、阿部信行内閣、米内光政内閣の二つの短命政権が続き、いよいよ運命の第二次・第三次近衛内閣の時代を迎えます。とはいえ、平沼騏一郎が首相に就任した時点では、日本は既に後戻りのできない峠を越えていたのではないかとも思えます。知れば知るほど、返す返すもがっくり来てしまう昭和史です。ろくに首相として仕事のできなかった平沼騏一郎氏がなぜA級戦犯で終身刑を言い渡されるのかも別の意味で残る謎です。