議会の混乱の収拾がつかないことで広田弘毅内閣が総辞職し、後継首相として一旦、宇垣一成が指名されますが、軍縮派の宇垣に対して陸軍が断固拒否し、陸軍大臣を出さないという手段に訴えたため、宇垣内閣は幻のものになってしまいます。そこでなんとか八方収めるために指名されたのが陸軍の林銑十郎でした。
石原莞爾は林銑十郎は扱いやすいと見ていたようですが、林は混乱した事態を混乱させたまま退陣に至った印象が強く、思ったほど扱いやすい相手でもなかったようか、無用な、無意味な、意義のない内閣だったと見ることができるかも知れません。
内閣は予算を通過させるために議会と様々な取引を行うのが常ですが、林銑十郎内閣の場合、予算が通過してこれでいよいよ一息つける、或いは議会側からすれば予算を通してやることで恩を売ってやったような感じになるのですが、林は予算通過後に懲罰的な意味も含めた衆議院の解散を行います。予算を通過させてもらっておきながら解散したことで、「食い逃げ解散」といういかにも品性のない呼び方がされています。
当時は政友会と改進党の二大政党がどちらも野党で、事実上オール野党状態でしたので、政権運営という観点から論じるならどこかで解散に打って出て政府に協力してくれる政党勢力を確保しなくてはいけないのですが、林の与党であった昭和会と国民同盟は議席を減らし、林は総辞職に追い込まれていきます。社会大衆党が議会の第三党に浮上し、その存在感を示したあたりが特徴的な選挙結果でしたが、プロレタリア文学が流行した時代でもあり、その世相を反映している面もうかがい知れます。林銑十郎が就任してから退陣するまでの間は僅かに四ヶ月。妥協の産物として登場し、妥協しきれなくなって総辞職としたという展開です。
上の流れを見ていると、とにかく陸軍の政府人事に対する威圧が激しく、あたかも政府が陸軍にのっとられているのではないかという錯覚すら起こしてしまいそうになります。議会は議会で、政友会も改進党もさんざん政権を困らせて立ち往生させることで自分のところに首相の指名が回ってくることを狙うのですが、選挙の結果ではなく政争の結果として政権が交代することを西園寺公望が嫌ったために、政党政治も機能しなくなっています。私はロンドン軍縮条約に対して政権ほしさに統帥権を持ち出して政府を論難した犬養毅の責任は相当に思いのではないかと個人的に思います。
せっかく大正デモクラシーが育ったにもかかわらず、昭和初期はまるでみんなで目に見えない大きな力で押されているかのように政党政治は自ら破綻して行き、陸軍ばかりが影響力を持つという負のループにはまっていったと考えるほかはなく、知れば知るほどがっくり来ます。
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