226事件で岡田啓介首相が退陣した後、組閣を命じられたのが広田弘毅です。当初、西園寺公望は近衛文麿を首相に推す意向を持っていたようですが、近衛が固辞し、吉田茂の説得で広田弘毅が組閣を引き受けることになったという経緯があるようです。
広田弘毅という人は見るからに文官風で、東京裁判で裁かれている姿を見ると、違和感というか受け入れがたいというか、何か不可思議な儀式を見せられているような気分になってしまうのですが、広田弘毅内閣の時代に軍部大臣現役武官制を復活させたこと、日独防共協定を結んだこと、それから近衛内閣の時代に外務大臣を務めた際、南京攻略戦後に強行な外交策に出てトラウトマン和平工作を水泡に帰させたことなど、確かに要所要所で日本が滅亡していく方向へと舵を切っていたと見ることも可能かも知れません。
軍部大臣現役武官制については、仮に予備役の軍人を大臣に据えることができたとしても、軍部大臣そのものが大抵の場合、陸海軍の意向を受けて行動もするし、辞表もチラつかせて脅しかけてくるしという面があるので、このことだけで軍国主義への道を開いたと考えるのは酷なように思えます。このような制度を作ろうと作るまいと、犬養毅が統帥権干犯問題で内閣を揺さぶる手法が可能だということを証明した後は、軍のなすがままにならざるを得なかったのではないかと私には思えます。
では、日独防共協定はどうでしょうか。日本としてはソビエト連邦に備えるための外交策で、リッペントロップが積極的に活動して締結されたものですが、後にアドルフヒトラーは独ソ不可侵条約を締結したことで「欧米事情は複雑怪奇」と言わしめるほどに当時の国策を実現していくものではなかったことが分かります。日本はアドルフヒトラーの外交のお遊びにつき合わされて引っ張りまわされただけで、英米からの敵視が増幅するという副作用もあったわけですので、こっちは体を張ってでも拒絶すべきものだったのではないかという気がします。
後に重臣会議のメンバーとなった広田弘毅は日独伊三国同盟の締結について、英米を敵に回すという理由で強く反対したらしいのですが、果たして日独防共協定は推して三国同盟に反対するというのはどういう心境なのかと首を傾げてしまいます。
もちろん「ソビエト連邦の脅威に対抗できるのならばヒトラーと手を組む、そうでなければ手を組まない」というロジックが理解できないわけではありません。しかしながら、最終的には対英米の協和が必須だったことは間違いなく、重要なポイントには取り組まず、小手先でいろいろなんとかしようとしたのが裏目裏目に出たのではないかという気がしなくもありません。大局を見誤っていたとしか言えません。
南京攻略戦後の交渉材料のつり上げによるトラウトマン工作の破綻は、広田弘毅が「外交のプロ」として、敵の首都を陥落させた以上、要求は更に大きくできるという常道を通したのかも知れませんが、実際問題としてはそれも裏目に出たわけで、策士策に溺れるの感が否めません。
東京裁判では広田弘毅は「自ら計らわない」に徹し、一切の自己弁護を行わなかったことで知られています。もしかすると、ヒトラーや蒋介石との外交で策謀を働かせ、次々と裏目に出て国を滅亡に導いてしまったことへの自責のようなものからそのような心境になったのではないかという気がします。
そうはいっても文官が文官としての仕事をして極刑に処されるというのはやはり気の毒というか、感情的に受け入れがたいものがあります。広田弘毅という人物をどう評価するかは、或いはあと30年ぐらい待ってみて、東京裁判の時代に生きていた人がいなくなったくらいからやり直さなくてはいけないのかも知れません。
広田弘毅内閣は馬場鍈一大蔵大臣の超巨大予算で混乱が生じ、寺内寿一陸軍大臣と政友会の浜田国松との間で「軍を侮辱するのか」「軍を侮辱していない。速記録を見返して軍を侮辱した箇所があったら私は腹を切る。もし見つからなかったら寺内君が腹を切れ」というタイマンの張り合いが起き、頭にきた寺内は広田首相に懲罰的な議会の解散を要求しますが、広田内閣は内閣不一致として総辞職します。
当時はもはや軍の影響力を排除した組閣は不可能に近い状態に陥っており、予備役の林銑十郎が次の組閣を担うことになります。
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