犬養毅が515事件で倒れた後、朝鮮総督を二度務め、シーメンス事件で失脚していた斎藤実が後継首相として西園寺公望に指名されます。
西園寺は荒木貞夫から「陸軍は政党政治には協力しない」と告げられており、昭和天皇からは「ファッショな人物は絶対にNG」と言われていたため、海軍出身でかつリベラルと目されていた斎藤実で双方の意見をまとめたという印象です。西園寺は政党政治志向の持ち主であったと考えられていますが、軍部が執拗に非政党政治を追及してくることをかわし切れなかったという感じで理解しています。
斎藤実はとにかく事件と一緒に生きた人という印象が強いです。朝鮮総督時代には爆弾テロに遭遇し、ドイツの企業から海軍の幹部に贈賄があったとされるシーメンス事件で失脚し、斉藤実内閣自体も平沼騏一郎の陰謀説がある帝人事件で総辞職し、226事件で非業の死を遂げます。新聞記者の世界には事件を呼ぶ新人というのがあって、その人物が配属された先ではやたらと事件が起きるという伝説みたいなものがありますが、斎藤実もまた、事件を呼ぶ軍人だったのかも知れません。
斎藤内閣では日満議定書を結んだほか、運命の国際連盟脱退をしています。1930年代の政権は一つ一つの選択がまるで狙ったように国際的孤立と最終的な滅亡へと着々と進んでいるようにも見え、やはり、日本はそういう運命だったのか…と思わなくもありません。
近年では日本全権として国際連盟の総会に臨んだ松岡洋右は国際連盟の脱退を避けたいと考えていたことが分かっているようです。天皇もしくはその側近から国際連盟の脱退は避けてほしいと内々に伝えられていたと言います。私は松岡洋右はとんでもない帝国主義者なのではないかという印象を以前は持っていましたが、最近の研究が正しければ、まっとうな常識人だったと言えるかも知れません。
ヨーロッパの総会で松岡が孤軍奮闘している時、関東軍は熱河作戦を行い、更に占領地を広げていきます。この難しいタイミングで関東軍は一体何をしているのか…とため息をつきたくなりますが、関東軍の作戦地域の拡大により、松岡は更に厳しい立場に追い込まれていきます。イギリスが本音ベースで話し合おう(列強でおいしいところを分け合おう)と持ちかけ、松岡はそれを渡りに船と考えたようですが、東京では「国際連盟を脱退すれば、満州のことで経済制裁を受けずに済む」という考えが持ち上がり、松岡に「脱退せよ」との訓令が届きます。松岡は後に「脱退したことを激しく後悔した」という主旨のことを書き残していますが、以上のような経緯を見れば、確かに後悔するであろうと思える展開です。松岡が東京を説得してイギリスの提案に乗ることができれば、太平洋戦争は起きなかったかも知れません。
ただ、陸軍はまるで過食症の患者のようにどこまでもどこまでも拡大し続けようとしていましたから、日本という国が当時の陸軍という組織を抱えている限り、どこかで日本は破綻したのではないかという気がしなくもありません。
斎藤実内閣の次は、岡田啓介内閣で226事件が発生します。誰か陸軍を止めてくれ…。
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