浜口雄幸内閣‐軍縮と緊縮財政

浜口雄幸内閣は、田中義一内閣が某満州重大事件で天皇に叱責されたことを口実に退任した後、西園寺公望が「憲政の常道」にのっとり、結成されたばかりの民政党の総裁である浜口幸雄を首相に推薦することで登場します。

幣原喜重郎を外務大臣に起用し、ロンドン軍縮条約の成立に成功させます。ロンドン軍縮条約はワシントン軍縮条約に比べると日本に有利な内容になったと言え、ワシントン軍縮条約での軍艦保有比率ががイギリス10、アメリカ10、日本6だったことに対し、日本は自国の比率を7にすることを求めていましたが、ロンドン軍縮条約では日本の比率が6.975というほぼ7に達したと見て良いくらいの数字を獲得していますので、外交的には相手の面子を立てつつ自国の目的も果たして万々歳と言ったところなのですが、政友会から「統帥権干犯だ」というある種の攻撃の攻撃、議論の議論を持ち出されて、浜口を論難します。実質を見ずに政敵を論難することに腐心する政治家の様子から西園寺公望はじょじょに政党政治への理想を失っていったのではないかという気もします。幣原喜重郎は満州への利権拡大に対しても消極的で軍との折り合いも悪くなり、やがて政治家を引退しますが、平和主義志向と国際協調路線が評価され、戦後に首相に起用されています。

財政では井上準之助を大蔵大臣に起用し、緊縮財政と金本位制復活に入ります。世界恐慌のあおりもうけて景気はみるみる悪くなり、いわゆる昭和恐慌に陥りますが、国家財政そのものは良くなります、今日まで続く財政拡大によるリフレかデフレでも財政均衡かという議論のはしりみたいなものですが、個人的には関東大震災の心理的な傷が癒えないこの時期のデフレ不況が、日本人を心理的に追い詰め、戦争賛美、外国侵略への強い支持へとつながっていったのではないかという気がしなくもありません。緊縮ですので、もちろん軍縮も進めるため、やはり軍との折り合いがうまくいきません。後に暗殺の悲劇に見舞われます。戦前の政党政治時代の日本はとにかく暗殺が頻々として起きており、いろいろ読んでみてもきな臭い、疲れる時代という印象ばかりが強くなってしまいます。

浜口雄幸は東京駅で狙撃され、一命をとりとめます。幣原喜重郎が臨時首相を務めて難局を乗り切ろうとしますが、臨時首相の状態が長引いたことが政友会からの格好の論難の的となり、浜口内閣は総辞職します。また、狙撃された時の傷がもとで、浜口雄幸はまもなく亡くなってしまいます。

浜口内閣のもとで行われた衆議院総選挙では民政党が圧勝しており、浜口内閣の失政による総辞職ではなかったことから、西園寺は憲政の常道をあくまでも堅持して、民政党に政権を担当させる方針で、第二次若槻礼次郎内閣が登場することになります。

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