田中義一内閣がいろいろな意味で残念な件

田中義一は原敬内閣と第二次山本権兵衛内閣とで陸軍大臣を務めた人ですから、政党政治を全く理解しない人というわけではなかったかも知れません。ですが当時、マスコミをコントロールすることの重大さに気づき、陸軍省新聞班を設置したりしていますので、大正デモクラシーに対する反発心も持っていたかも知れず、ある意味では大正時代の軍縮・協調外交・政党政治路線への反動勢力の先頭に立つような形で首相に就任します。

政友会では高橋是清が人事の紛糾で首相の座を退いた後、政友会総裁の後継者を探しますが、過去の政争が根をひきずってしまい、適切な人物が見当たらず、やむを得ず外部から田中義一を総裁として招きます。そして若槻礼次郎内閣が不祥事続きで辞職した際、憲政の常道に従い、野党第一党の政友会の総裁である田中義一が首相に任命されるという展開になります。憲政の常道は新たに作った不文律のようなものですが、民主主義の定着を狙ったものであったため、貴族院議員の田中義一に大命降下するというのは、ルール上全く問題ないにも関わらず、衆議院で選ばれていない人物という意味では憲政の常道の核になる部分が骨抜きになった見てもそんなに外していないと思います。

外交では幣原喜重郎の対外温和路線を否定して対中強硬策を採用しており、在留邦人の保護の名目で三度にわたって山東地方に出兵しており、途中で田中義一が開いた東方会議でも対中強硬路線を堅持しつつ、関東軍は投入しないという意味不明な迷走を見せており、河本大作大佐が起こした張作霖暗殺事件は、その田中義一への意趣返しとの見方もあります(河本が蒋介石に抱き込まれたんだーっ!という意見もあるかも知れません。私にはそれを判断するだけの知見がありません。すみません)。

さらに鉄道疑獄事件と文部大臣が辞める辞めない問題もあり、田中義一内閣は行き詰まりを見せ始めます。止めを刺したのは昭和天皇で、昭和天皇が、張作霖事件の犯人が河本大佐だと分かっているのにそれを隠そうとする田中義一に対し「お前なんかやめろ」と言ったという人もいれば「側近に田中は嘘つきだから、もう顔を見たくない」と言ったことが田中の耳に入って観念したという人もいるようで判然としませんが、昭和天皇は後に「田中義一の時には介入し過ぎた」と後悔するような回想をしているので、踏み込んだ発言があったのかも知れません。昭和天皇も30歳くらいでまだまだ若いですから、かーっと感情的になることがあったとしても不思議とも思いません。ただ、首相の責任を放り出したいと思っていた田中義一が「天皇陛下の怒られた」という格好の口実を得て辞職したような気もなんとなくしてきます。

こうやって見ていくと、高橋財政だけがお札の半分だけ刷ったものを銀行に山積みして預金者を安心させるという頓智のきいた奇策が光っているものの、それ以外、特に外交では残念な部分が多く、憲政の常道に疑問符がつけられるような展開になったのも私の目から見てもったいなくも思え、残念な内閣という意見になってしまいます。

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