1938年、台湾の宜蘭地方に赴任していた日本人巡査に召集令状が届き、地元の人たちが歓送会を大いにやって入営することになります。その際、見送りの人たちの中に台湾の原住民のサヨンという少女が川に渡してある橋で足を滑らせて帰らぬ人になってしまいます。
この実際にあった出来事はその後大いに美化され、愛国宣伝の材料になっていきます。西城八十が『サヨンの鐘』という歌の歌詞を書き、古賀政男が曲をつけますが、大いに流行し、松竹、満州映画協会、台湾総督府が協力して『サヨンの鐘』が映画化され、昭和18年に公開されます。
映画の冒頭部分は台湾ののどかな風景、原住民の人たちの生活が描かれます。実際に台湾の村でロケをしたからだと思いますが、大変にリアルな印象を受けます。人間関係の描写もうまくできており、もしこの映画の内容が「日本人に恋心を描く植民地の少女」になっていたとすれば、ばかばかしくて見ていられないのですが、映画の中で出征する日本人巡査は「武田先生と呼ばれて下の名前すら明らかにはされず、登場する場面も少なくて、いい人ではありますが、あんまり前に出てくるわけではないので、現代の我々の視点からみてもギリギリセーフと言えるのではないかと思います。サヨンが感極まって「武田先生バンザーイ」と叫びますが、あんまりいやらしい感じではなく、素直にエールを送りたくなったから送るというように見えるので、人間愛的な絆を表現しており、さらっとした感じですので、観るに堪えない宣伝映画という感じにはなっていません。
あくまでもポストコロニアル研究の一環になると思ってこの映画を観たのですが、後半では李香蘭が本物のサヨンに見えてきて、サヨンの死への哀悼の感情が生まれてきてしまい「ああ、いい映画じゃないか」と素直に思ってしまいました。私が単純すぎるのかも知れません。
昭和18年の封切りですから、既に太平洋戦争はガダルカナルの段階に入っており、さすがにまだ敗色濃厚というわけではないですが、映画の随所に散りばめられた愛国メッセージは、プロパガンダとはこういうものだという教材になるのではないかと思えます。
日本語をよく使い『海行かば』をも歌う原住民の人たちの姿は、皇民化が成功していることの証左であると言わんばかりであり、日本人はいい人たちであり、現地の人たちとの関係も良好であるとのメッセージがぎっしりと詰まっています。
どのような題材を如何にして描くかは、時代によって様々です。『サヨンの鐘』と『セデック・バレ』を見比べるだけでも、いろいろなことが見えて来るのではないかという気がします。『サヨンの鐘』に登場する日本人は、現地の人を「教化」はするけれども、その人間関係にはあまり深く立ち入らないという姿勢を貫いており、その背景には霧社事件が踏まえられているようにも思え、満州映画協会が絡んでいますので、五族協和とはかくあるべしという思想も読み取れるかも知れません。
私は日本の帝国主義を弁護する気は全然ないですが、当時の映画の作り手がどういうことを考えていたかを知ることで、当時の世相のようなものを理解する手がかりにはなるはずで、そういう意味では一見の価値ありと思います。