加藤高明内閣

憲政会、政友会、革新倶楽部の護憲三派が衆議院で多数派を形成し、憲政会総裁の加藤高明が首相指名されます。

加藤内閣では普通選挙法と治安維持法を成立させ、日ソ基本条約を成立させて、日本とソビエト連邦の間の国交を樹立します。悪名高き治安維持法ですが、当時の空気としては普通選挙法で有権者の数が急増することと、ソビエト連邦との国交樹立で共産主義思想が日本に輸入されやすくなることとから、共産主義者が増えるのではないかということに、権力が危機感を持っていたということが伺えます。ただ、ソビエト連邦との国交樹立については、経済界からその要望が強く、普通選挙法も民主国家としてはいずれやらなくてはいけないことですので、治安維持法とセットにすることで反対者を納得させたという面もあったのではないかと思います。この時の陸軍大臣だった宇垣一成が二個師団の軍縮を行っていますので、いろいろ仕事をした内閣だったということは言えそうです。

ソビエト連邦との樹立では、日本軍が進駐していた北樺太から撤退することを条件に、北樺太資源を日本に提供するという交換話が成立しており、なんとなく今の北方領土問題と似ているように思えなくもありません。

加藤高明は護憲三派による連立内閣でしたが、憲政会と政友会のつなぎ役をしていた横田千之助が急死したことを受けて政友会が連立政権から離脱する動きを見せ、加藤高明下しを始めます。加藤高明は内閣総辞職の辞表を提出しますが、裕仁摂政宮はそれを受理せず、再び加藤高明に組閣が命じられます。首相の指名権を持つ元老の西園寺公望は元々は政友会の総裁までやった人ですが、横田千之助が亡くなった途端に加藤下しを始めたことが、美学に反すると感じ、加藤を続投させることに決めたと言われています。

加藤は憲政会だけの少数与党で続投しますが、4か月後に急死してしまいます。少数与党だと何もできませんので、やはり相当な心労が重なったのではないか推量できます。

加藤の後継者には憲政会の若槻礼次郎が首相に指名されており、西園寺公望の憲政の常道は維持するという意思を見ることもできるでしょう。その後しばらくの間、憲政の常道にのっとった形での首相指名が続きますが、やがてそれがダメになり、西園寺が育てた近衛文麿によるエスタブリッシュメント内閣で滅亡への道を全力で突っ走ることになります。

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