清浦奎吾内閣

清浦奎吾は第一山本権兵衛内閣がシーメンス事件で辞職した後に、組閣を命じられますが、人材が集まらずに組閣に失敗し、鰻の香りはかげたがうな丼は食べられなかったと揶揄されます。

その後、第二次山本権兵衛内閣が虎の門事件で総辞職し、再び清浦圭吾が首相に指名されます。ただし、衆議院の選挙をするのが主目的みたいな内閣で五か月だけの短命内閣です。

人生で二度も首相に指名されることは普通では経験しないことですが、一度目は組閣そのものに失敗し、二度目は短命内閣で、運が良いのか悪いのかよく分からない感じの人です。

清浦奎吾は山県有朋系人脈に入る人で、政党政治には批判的であり、議会に束縛されないことを目指す「超然主義」内閣を作ります。貴族院の議員を中心に組閣しており、衆議院からは閣僚をとらないという姿勢で臨んでおり、衆議院の政友会、憲政会、革新倶楽部が共闘し、護憲三派を結成し、第二次護憲運動を起こします。

清浦奎吾は対抗策として衆議院を解散しますが、その結果、清浦内閣に批判的だった護憲三派が圧勝し、清浦奎吾は「憲政の常道」に従う形で総辞職します。

清浦奎吾の後は衆議院で第一党になった憲政会の加藤高明が首相に指名されます。首相指名の権利を持つ元老会議が、第一党の首相を指名するという憲政の常道にきれいに従った形での内閣です。

清浦奎吾という人は、悪く言えば時代錯誤な感じの人だったように思えます。国権が民権を超越するという山県有朋の政治思想をそのまま受け継ぎ、実践しようとしていた人とも言え、西園寺公望のような人から見れば、そもそも首相に指名するには相応しくないと思えたでしょうけれど、いい意味で言えば困った時の清浦奎吾という面もあり、山本権兵衛内閣が総辞職した後に、いろいろな後始末や後続の人たちのための露払いをさせる、敢えて汚れ役をやってもらうという感じなところがあり、西園寺公望は上手に清浦奎吾を利用したと言えますが、清浦奎吾の方でも上手に利用されてやることで、二度も首相指名を獲得したと見ることもできるかも知れません。

大正時代は「憲政の常道」「護憲運動」など、立憲主義が世の中に漂い、果たしてあるべき民主主義とは何かということを政治家も国民も手探りながらに真剣に考えていた時代とも言うことができ、そういう面で魅力的な時代だなあと思えます。

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