第二次大隈重信内閣

徳川家達が首相を辞退し、清浦奎吾が組閣に失敗し、元老会議でしぶしぶ指名されたのが、既に政界を引退していた早稲田大学総長の大隈重信です。

この内閣が仕事をしている時に、第一次世界大戦が勃発すると、大隈重信はドイツに最後通牒を送りつけ、一週間返答がなかったことを確認し、日英同盟に基づいて参戦を決心します。この決定の時、御前会議は開かず、軍にも折衝せず、議会の承認も取り付けようとしなかったことが後に批判されます。

御前会議で天皇の意思が示されることは通常なく、会議のシナリオまで決まった通過儀礼のようなものですが、その会議のシナリオを作る上で御前会議参加者との折衝が行われ、意思疎通を図り、コンセンサスを形成していくという役割が合ったように思えますので、御前会議を開かなかったというのは、天皇軽視というよりは、独断でなんでも推し進めようとする大隈重信の性格が現れていたと理解することも可能ではないかという気がします。

日本とイギリスはドイツが権益を持青島と膠州湾を攻略しが他、ドイツの領有する南太平洋の島々も攻略し、同地のドイツ艦隊は日本との決戦を避けて東太平洋に脱出していることもあって、ほとんど損害を出すことなく勝利しています。日本の連合艦隊が日露戦争後にも強化され、世界的にも最強クラスのものになっていたことが分かります。

ヨーロッパ戦線への日本軍の派遣が要請されますが、これは拒否。海軍は護送や救援のための艦隊をヨーロッパに派遣し、高く評価されたと言います。もし、陸軍もヨーロッパに派遣していたならば、第一次世界大戦後の世界ではヨーロッパ諸国は日本に頭が上がらないところがあったでしょうから、その後の歴史も変わったのではないかとついつい考えてしまいます。まさか、日本がヨーロッパで利権を握ってどうのこうのとは思いませんが、少なくとも恩人扱いされて、その後の日本と欧米との付き合い方に大きな違いが出たように思え、それはその後の満州事変問題で日本が国際連盟を脱退するという馬鹿げた外交戦略に走ることを予防できたかも知れないとも思えてしまいます。

大隈重信は積極外交路線の人というか、過去に英国公使ハリー・パークスを論破したという伝説もあり、第一次大隈重信内閣の時は、アメリカのハワイ合併に最後通牒かと見まごうようなメッセージを送ったりしていた人ですが、中国に対しても強気で対華21か条の要求を出します。日本側が特に気にしていたのは大連周辺の租借期間の延長と、外地での邦人保護でしたが、日本人顧問を中国政府に受け入れせると言う、通常では考えられないような項目も入っていましたので、少なくともその項目はやりすぎだったのではないかと私は思います。

戦勝宰相とも言えますが、対華21か条問題で西園寺が大隈を白眼視するようになり、予算を巡って貴族院との対立も生じ、大隈重信内閣は総辞職します。大隈重信は次の首相に加藤高明を推しますが、元老会議は寺内正毅を推し、大正天皇が寺内正毅の方を支持するという形で決着します。当時の日本政治の頂点は首相ではなく元老であったということがよく分かる一幕だったと言えるかも知れません。

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