第二次大隈重信内閣が総辞職した後、長州閥で陸軍大臣や朝鮮総督を経験した寺内正毅が首相に就任します。戊辰戦争、西南戦争に従軍したなかなかの古強者で、山県有朋が強く推薦したと言われています。間に大隈重信が入っているものの、その前が薩摩閥で海軍大臣を経験した山本権兵衛が政権を担当していましたので、長州・陸軍と薩摩・海軍の政権の回り持ちがまだ生きていたことが分かります。
寺内正毅内閣は議会におもねらない「超然内閣」で、結果として議会の協力を得ることが難しく、内閣不信任案の提出もあり、衆議院の解散総選挙が行われています。選挙の結果では政友会が第一党を確保し、寺内内閣に協力する立場に立ったため国内政局は一応安定しますが、第一次世界大戦の真っ最中で、寺内は軍閥で割れていた中国に手を突っ込み、北京の段祺瑞政権に肩入れします。あんまりそういうことをすると痛い目に遭うことは戦後を生きる我々の視点からすれば、あまりいいことではないようにしか思えないのですが、日本が一歩一歩、中国大陸に深く足を踏み入れて行って抜くに抜けない泥沼になっていく様子が少しずつ見えて来ると言えなくもありません。
1917年にロシアでレーニンの10月革命が起き、寺内正毅はシベリア出兵を検討し始めます。その結果、米不足が起きるのではないかという不安が国民に広がり、米騒動へと発展し、その混乱の責任をとって寺内は辞任し、大正デモクラシーの本番とも言える原敬内閣が登場することになります。
寺内正毅は首相の座を降りた後、ほどなく病没してしまいますが、やはり政治家というのは精神的にきついのだろうなあと想像せざるを得ません。特に、明治憲法下では議会に勢力を持たない人物が往々に首相に指名されるため、議会運営でわりと簡単に行き詰まってしまうというのが目についてしまいます。寺内内閣では寺内さんご本人が陸軍出身の人であることと、軍部大臣現役武官制の縛りがなかったことで、そっちの方面ではあまり苦労はなかったと思いますが、明治憲法下では議会対策と軍部対策の両方で内閣が苦労するというのがほとんど常態と言ってもいいかも知れません。
その後、日本の政治は原敬、犬養毅のような政党人、田中義一、山本権兵衛のような軍人、清浦奎吾のような官僚系の人々の間で権力の奪い合いゲームが行われ、やがて民主政治に結構失望してしまった西園寺公望が手塩にかけて育てた運命の近衛内閣が登場することにより、挙国一致して滅亡する方向へと向かっていくことになります。
スポンサーリンク
関連記事
第三次桂太郎内閣
第一次西園寺公望内閣
第一次大隈重信内閣