第三次桂太郎内閣が失意の崩壊現象を起こした次に成立したのが第一次山本権兵衛内閣です。第一次山本権兵衛内閣の功績はなんといっても軍部大臣現役武官制の廃止です。
山本権兵衛内閣が成立する前、第二次西園寺公望政権では上原陸軍大臣が二個師団増強を要求し、ダメなら陸軍大臣を辞めると言い出し、陸軍から新しい人材の推薦がないことで、政権が終了しています。
また、第三次桂太郎内閣では、今度は海軍の方から予算増額を要求され、斎藤実海軍大臣が「ダメなら辞める」と言い出し、右往左往させられます。内閣の崩壊を防ぐために天皇の勅書によって斎藤実を内閣に引き止めますが、そこが弱みで議会から攻撃されるという知れば知るほど桂太郎命運尽きたりという印象が強くなり、気の毒に思えてきます。
上の二つの内閣崩壊の要因は山県有朋の作った「軍部大臣現役武官制」に求めることができ、この仕組みが続く以上は内閣は軍部の言いなりにならざるを得なくなりますので、海軍の人である山本権兵衛がいわば自分の出身母体の利権を捨てるという英断によって行われます。陸軍大臣の木越安綱は山本権兵衛に協力し、賛成にまわったため、その後陸軍では冷遇されてしまいますが、私個人は必要を認めれば自分の利権を自ら捨てるというのは教養人に必須の素質と思っていますので、私の木越安綱に対する印象は頗るいいものです。
その後、ドイツのシーメンス社から海軍の主要な人物に贈賄が行われていたという事件が発覚し、山本権兵衛内閣は総辞職に追い込まれていきます。シーメンス事件は山本権兵衛を追い詰めるために山県有朋による陰謀だったという説もあり、もしかしたらそうかも知れないのですが、私の山県有朋に対する印象があまり良くないので、そういう悪い情報ばかりを集めてしまっているのかも知れません。
山本権兵衛内閣の総辞職を受けて徳川家当主の徳川家達が元老会議で次の首相に指名されますが、徳川家の人々が反対して辞退します。次いで山県有朋の子飼いとも言える清浦奎吾が首相に指名されます。ところが組閣しようにも海軍から海軍大臣を出すのを断られ、清浦圭吾は軍部大臣現役軍人制維持論者でしたので(山県の子飼いならそうなります)、現役軍人以外の海軍大臣を選ぶわけにもいかず、組閣を断念。世に言う幻の鰻香内閣と呼ばれる展開を見せます。
こうして元老会議は半ば渋々大隈重信を次の首相に指名することになります。第二次大隈重信内閣では第一次世界大戦が起きるは、対華21か条の要求が出されるはでなかなか忙しい感じになってきます。
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