桂太郎は戊辰戦争に参加したいわば歴戦の勇士みたいな人ですが、維新後短期ドイツに留学し、帰国後に大尉クラスで陸軍に入り、山県有朋派で軍歴を積んだ人です。
第四次伊藤博文内閣が政党政治運営をしようとして行き詰まり、次の首相の成り手がいない中で「桂にでもやらせよう」みたいなノリで首相に選ばれますが、結果としては政治の世界の世代交代につながった上に、桂太郎と西園寺公望が交代で首相になるという桂西時代を作っていくことにもなります。
発足当初は伊藤博文の立憲政友会が議会で小村寿太郎に協力しないというまさかの嫌がらせにも遭っており、よく見てみると伊藤と山県のつばぜりあいの道具に桂が使われていた側面があったようにも思えます。桂は立憲政友会側の西園寺公望を次の首相に推すという密約をすることで、政局をどうにか乗り切ったと言われており、桂と西園寺の仲介をしたのが原敬だという話もあるようです。
桂太郎内閣では小村寿太郎が外務大臣になり、日英同盟の締結に成功した他、日露戦争でも勝利し、小村寿太郎がポーツマス条約でどうにかぎりぎり日本が勝ったと言える内容に持ち込んだと言うのも桂太郎内閣の功績と言えるかも知れません。
日英同盟が結ばれたのは、ロシアの東洋進出を妨害したいイギリスと進出される側の日本の思惑が一致したからと言えますが、当時から火中の栗を日本が拾わされるのだという揶揄もあったものの、日清戦争が始まると議会が一致して伊藤博文に協力するという展開になったこともあったように、結果としては対外戦争によって国が一致団結し政権が国内的に安定するという効果があったように見え、そういう意味では明治憲法時代の内閣には潜在的に戦争を許容するというか、場合によっては戦争で内閣が延命できるという無言の法則ができたというような、戦争に親和性の高い内閣が作られやすくなっていったという側面あったのではないかという気がしないわけでもありません。
日露戦争では局地戦では日本が連戦連勝と言っていい成果を収めたものの、ポーツマス条約ではいろいろ難航してしまい、南樺太という当初は両国民雑居の地として主権が曖昧だったところを日本がどうにか手に入れることができた他、日清戦争によって得た当然の権益をロシアに横取りされたと当時の人が考えていた遼東半島の租借権を得ただけで、賠償金はなしということで話を収めたことから、桂太郎に非難が集まり、というか新聞が煽って市民が激昂して日比谷焼き討ち事件も起きて、桂太郎は西園寺公望に首相の座を譲ることになります。ただ、その後は桂と西園寺が交代で政権を担うようになり、伊藤・山県時代が少しずつ終わっていくことになります。