第四次伊藤博文内閣

政府が議会を抑えなくては物事を前に進めることができないと悟った伊藤博文たちが立憲政友会という政党を立ち上げたのに対し、「人気投票で選ばれた政党政治家に権力が運営できるものか」と考える超然内閣思想の山県有朋が「やれるものならやってみな」という形で伊藤博文に下駄を預けて始まったのが第四次伊藤博文内閣です。

伊藤博文の立場からすれば、政党政治が本当にできるかどうかの実験してみるという要素が強かったでしょうし、明治天皇と伊藤博文はある種の盟友関係にあったと私は思いますので、明治天皇も不安だったのではないかと思えます。

第四次伊藤博文内閣ではさっそく井上薫の大蔵大臣人事で紛糾し、星亨が収賄疑惑で逓信大臣を辞任させられるという、なかなかに踏んだり蹴ったり、泣きっ面に蜂的な展開を見せて行きます。衆議院は伊藤の立憲政友会が過半数を抑えていましたので予算を通過させることができましたが、貴族院の方で予算が通りません。予算に関しては衆議院に先議権があり、貴族院で予算が通らないというのは必ずしも内閣の致命傷になるとは言い難いですが、貴族院はその性質上、政党政治には不賛成な立場であり、明治維新の元勲であるはずの伊藤博文が政党政治志向に切り替えたことへの反発があり、ある種の嫌がらせみたいな状態になってしまったと言えます。

そこへ鉄道公債問題が浮上してきます。政友会の政治家たちはもっと急いで鉄道を作ってほしいとせっついてきます。自分の選挙区に鉄道を伸ばしてほしいのです。今と同じです。井上薫の大蔵委大臣人事をご破算にさせて大蔵委大臣のポストに収まった渡辺国武が財政緊縮派の人で、当時は鉄道建設は全て鉄道公債で費用が捻出されていましたが、「今後は公債による鉄道建設は不可(鉄道は当面は作らない)」と言い出して紛糾します。無駄な公共インフラは慎まれなければいけませんが、必要なインフラはやらなくてはいけません。現代のインフラ整備に関する議論と全く同じものを見ている気がしてしまい「100年前から何も変わっていないのか…」とちょっとため息をつきたくなります。

事態の収拾に限界を感じた伊藤博文は首相を辞任。井上薫を次の首相にするという話が持ち上がりましたが、井上薫は大蔵大臣に渋沢栄一を、陸軍大臣に桂太郎を据える人事を構想したものの両者に断られ、首相就任を辞退します。結果、桂太郎が元老たちから推薦され、第一次桂太郎内閣という長期政権が登場することになります。


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