李氏朝鮮王朝への影響力の拡大を目指す日本は、李王朝が長らく朝貢していた清との対決を覚悟していくようになります。ごく個人的な意見ですが、明治初期から日本では「征韓論」が湧いては消えていくので、よちよち歩きの新政府が外国に攻めて行くという発想事態がよく理解できませんし、朝鮮半島、遼東半島、南満州へと利権を拡大したことがやがては日本帝国の滅亡へとつながっていきますので、短期的には良かったかも知れませんが長期的には大陸進出は怪我の素と言えなくもない気がします。
それはともかく、日本はまず李王朝が清朝に朝貢するという伝統的なスタイルを保とうとすることを嫌がり、なんだかんだと楔を打ち込んでいこうとしますが、福沢諭吉の金玉均の明治維新をモデルとした改革を目指したクーデターに絡んだ第一回目の軍事衝突は日本側の敗退で終わります。これで落胆としたいうか、憤慨したというか、すっかり嫌になってしまった福沢諭吉が『脱亜論』を時事新報に掲載するという流れになります。
この結果、天津条約が結ばれますが、日本敗者として交渉に臨まざるを得なかったものの、今後は朝鮮半島に出兵する際には日清が同時に出兵するという何故か不思議と日本に有利な取り決めがなされ、後日に発生した東学党の乱では李王朝が鎮圧のために清に軍の派遣を要請すると、天津条約を盾に日本軍も出兵します。両軍本気の出兵ですので、一触即発、開戦必至の状況に至ります。
日本軍は宣戦布告前に朝鮮王宮を占拠するという、はっきり言えば暴挙に出たと私は思いますが、その後に清に宣戦を布告し、正式に戦争状態に入ります。宣戦布告の前に朝鮮王宮を占拠した動機としては、清に宣戦布告すると李王朝も一緒に日本に宣戦布告する可能性もあり、アクターが2対1になることを恐れ、それを阻止するのが狙いだったのではないかと思えます。
清は兵隊の数では文句なしですし、大砲はドイツのクルップ社から買った鉄製の大砲が標準装備。それに対して日本軍は国産の青銅の大砲です。鉄の大砲の方が丈夫ですので、射程距離も伸びやすく、ぶっちゃけ清の圧倒的有利です。よくこの状態で伊藤博文は戦争をやる気になったものだと首を傾げてたくならなくもありません。しかも国内では衆議院選挙の真っ最中、対外戦争が起きれば国内がまとまった政局的にも有利という判断はあり得ますが、ちょっと方向性を間違えれば全部瓦解しますので、博打も博打。大博打です。
ところがいざ戦端が開かれると各地で日本軍が圧勝します。どこへ行っても激戦があった翌日には清軍が撤退しているというのが続きます。袁世凱が決戦を避けたからだという説明もありますが、私個人としてはこれは袁世凱の深刻なサボタージュだと思えます。温存した兵力を結局は辛亥革命に使いますので、この人一体何なんだというか、内部にこんなのがいれば、そりゃあ勝てません。大事な時に裏切る兵隊100万人よりどこまでもついてきてくれる200人です。
海戦では結論としてはなかなか勝負がつきません。当時の北洋艦隊は定遠と鎮遠というこれもドイツ製の世界最大最新の戦艦を二隻持っていましたが、日本の連合艦隊はそもそも戦艦がありません。速力と操艦技術で北洋艦隊は撤退しますが、よくもまあこんな海戦をやるつもりになったなあと驚愕します。
その後北洋艦隊が閉じこもってしまい、じっと我慢の包囲作戦になるわけですが、陸戦で日本軍が旅順、威海衛を陥落させたことでいよいよ講和という話になっていきます。陸軍部内には北京まで行って直隷決戦を主張する人もいたようですが、そんなことをすれば光緒帝は熱河、更にどっか遠くへと避難して、そのうち日本軍の兵站が疲弊してしまうという日中戦争と同じ展開になってしまいますので、直隷決戦をやらなくて本当に良かったです。
このように見ていくと清の陸海軍ともに戦意に乏しかったことが日本の勝因であり、そこには李鴻章が戦力を温存した状態で列強の介入による講和という筋書きがあったとも言われますが、頼みにする予定の列強の介入がなされる前に決着がついたわけで、李鴻章の読みが外れたとも言え、敵失という天祐で戦争に勝てたのだということが分かります。
日露戦争も天祐だらけで第一世界大戦も日本だけにとっては天祐みたいな棚ぼた的な展開を見せますが、日本は天祐で勝利を重ねることができたということをだんだん理解できなくなっていった人たちが運命の太平洋戦争に突入したとも言えますので、確かに勝ったことは勝ったわけですが、素直に喜ぶわけにもいかない複雑な心境で見ざるを得ない日本帝国のデビュー戦です。