第一次松方正義内閣



第一次松方正義内閣は最初から最後までなかなかお気の毒な内閣だと言わざるを得ないように思えます。就任以来、伊藤山県の傀儡だと揶揄され、実際に多分大体その通りで、山県が嫌になって政権を投げ出した敗戦処理みたいなことに終始させられたように見えなくもありません。

しかも、ロシアの皇太子のニコライ二世が来日中に大津で巡査に襲撃されるという大津事件が起き、なんでこんな面倒なことになるのかと寿命が縮む思いをしたに違いありません。清隆内閣の時には西洋指向の強い森有礼が暗殺されるという事件が起きており、現代風に言えばグローバリズムvsナショナリズムと同様の葛藤が日本国内で起きていて、ひたひたと確実に浸透してくる「西洋」に対し、官が諸手を挙げて西洋化へひた走るのに対して、民の中ではついていけない、或いは侵されていると感じている人が多かったのかも知れません。

この時期は伊藤(長州)、黒田(薩摩)、山県(長州)で松方(薩摩)と薩長でピンポンみたいに総理大臣の座を回り持ちしている時代ですので、それへのルサンチマンもなかなかに強く、舵取りに苦労していたように思えます。更に輪をかけたのが海軍大臣の樺山資紀の衆議院に於ける演説で、要約すれば「薩長政府のおかげでお国が護られていると分かっているのかこの〇〇野郎(〇〇の中に何が入るかは人それぞれの想像力の発露に任されます)」的な本音で切れまくった演説を行い、これをきっかけに野党が優勢な国会が混乱。松方は衆議院の解散を決意します。憲政史上初の衆議院の解散です。

第二回衆議院総選挙では選挙期間中に官による民党への選挙妨害が激化し、死者が出る事態にまで発展します。松方内閣は山県内閣の閣僚を基本的に引き継いでいたものの、陸奥宗光が怒りの辞任。その他の閣僚も松方を支持しなくなってゆき、松方は裸同然の状態になります。第二回衆議院選挙の結果は官(与党)が124議席を獲得しており、過半数には達していないものの、第一回総選挙と比べればかなりの大躍進と言うこともできますが、松方内閣はすでに空中分解同然の状態となってしまっており、観念した松方は辞表を提出することになります。

最初から最後まで不測の事件も含んで実に気の毒で、あんまり揶揄するようなことを書くのもかわいそうに思えてきます。ただし、選挙妨害で死人が出るなどというのはもってのほかですので、辞任という形で事を収めるのもやむを得ないかとも思います。後年、第二次松方内閣が誕生しますが、この時も宿敵大隈重信との合従連衡でやいのやいのと騒がしい政権運営が行われます。

元々島津久光の側近で幕末の争乱をくぐり抜けてきた人だっただけに血気盛んで、なんだかんだと騒ぎを呼び寄せる体質だったのかも知れません。

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