第一次山県有朋内閣について語る際に外すことのできない話題は第一回衆議院選挙のことではないかと思います。現代のような議院内閣制とは違い、政府の議会に対する影響力は低いもので、政府vs議会の構図になってしまった場合は憲法の規定上、衆議院には予算の審査権がありましたので、政府は立ち往生するということにもなりかねませんでした。
衆議院が予算を通さない場合は前年度の予算を踏襲するとも定められていたため、運営できなくなったり機能がストップしたりするわけではありませんでしたが、そのような場合は国策の変更がきかなかったりインフレに対応できなかったりしますので、硬直的な政権運営に陥りやすく、現代を生きる我々にとって議会における予算の審査は当然なされなければならないものですが、当時の明治政府関係者としては「議会というのはなんとやっかいなものか」と思ったに相違ありません。
たとえば新政府からあぶれてしまった人、または旧徳川で新しい時代からこぼれ落ちてしまった人から見れば、議会の開催は政治に復帰する絶好のチャンスであり、また、新聞にもそういう人が多かったので、第一回衆議院選挙では、政府に一泡吹かせてやりたい、薩長藩閥に一発食らわせてやりたいという人たちにわざわざ発言の機会を与えて予算の審議権まで握らせるわけですので、明治新政府がわりとそれまで仲間内でなんとかしていたことが外からの批判に耐えうるものにすることを迫られるようになったとも言え、まあ、そこが民主主義の肝でもありますので、ようやく日本が近代的な国家になれる第一歩がこの選挙だったかも知れません。
議会選挙には「温和派」と呼ばれる政府に協力的な勢力と「民党」と呼ばれる反政府ルサンチマン同盟の戦いで、新聞の煽りもあって「民党」が圧倒的な勝利を収めます。温和派が84議席獲ったのに対し、民党は171議席ですので、ダブルスコアに近い形で勝負がついたわけですが、予算の編成とその執行は政府の姿勢そのものですので、ここを握られた山県有朋は心中極めて苦々しいものがあったに相違ありません。この構図はアメリカの大統領の政党が議会で少数派になったようなものだと考えれば似ているかも知れません。陸奥宗光が民党(野党)の一部を抱き込むことにより予算を通しますが、山県は議会運営に自信が持てないとして辞表を提出。松方正義が次の首相を任ぜられることになります。
陸奥宗光はこの第一回衆議院選挙に和歌山の選挙区から出馬して当選しており、山県は陸奥を入閣させ、彼に議会工作をさせることで難局を乗り切ったわけですが、その後の内閣は次第に議員を抱き込むことで政策を通すというのを常道にするようになり、いわゆる腐敗が深刻化していくことになります。
もっとも、単純に一直線に腐敗していったわけではなく、途中で原敬首相の登場と藩閥政治の終焉という大正デモクラシーも間に挟み込みより複雑にかつ深淵に、そこに新聞の煽りが入るという図式が生まれていきます。その辺りはまた別の機会に述べたいと思います。