第一次伊藤博文内閣



1885年(明治18年)に伊藤博文が日本で最初の総理大臣に就任します。明治維新後、新政府は便宜的に太政官制を活用して行政の職制を維持していましたが、海外の事情が分かってくるにつれて、キャビネット制が欧米の一般的な仕組みであるということが分かり、それにならったものを作ろうとして研究した結果、生み出された新制度ということができるかも知れません。

最初の首相の座を射止めたのは伊藤博文でしたが、最初の首相には太政大臣経験者の方がいいのではないかという声もあり、太政大臣経験者の三条実朝とのレースも起きたようです。

とはいえ、三条実朝は岩倉具視の傀儡みたいな部分がなかったわけでもなく、新政府の実質的な運営は薩長閥によってなされていたことを考えれば、長州の大物である木戸孝允が亡くなり、その次席みたいな立場を保っていた伊藤博文が就任するというのも自然なことと言えば自然なことかも知れません。

高杉晋作が生きていれば、その気迫で高杉晋作に話が行った可能性もあったと思いますが、彼は早い段階で病没してしまっています。伊藤に対抗し得る人物として山県有朋がいましたが、西南戦争の時の指揮に対する評判は必ずしも芳しいものではなく、なんといっても功山寺決起の時に伊藤が先に来て山県が遅れをとっていますので、その順番で行けば、やはり伊藤博文が先だというのが派閥力学の穏当な落としどころと言えたかも知れません。

一方の薩摩藩閥の方は西郷の下野と西南戦争、翌年の大久保利通暗殺で、明治維新第一世代が力を失っていましたので、こういう点も伊藤博文には有利に働いたようにも思えます。

伊藤博文の仕事は日本をより「西洋みたいな国」にすることで、そのためにはどうも「憲法」なるものがないといけないらしいということが分かり、金子堅太郎などをブレーンに憲法草案に取り組みます。また議会設置も課題で、どうやら欧米では議会がないとまともな国として見てもらえないらしいということが分かり、そっちの方にも尽力します。自由民権運動が下から突き上げてきますが、これについては保安条例で抑え込み、お上にとって都合のいい議会設置ということを目指しますが、後の大正デモクラシーの開化やその後の政党政治の挫折などを考えると、制度というものは一度作ってしまうと第一世代の意図を離れて発展なり迷走することが分かるとも言えそうです。

内閣の顔ぶれは薩長で仲良く分け合い、公卿はゼロ。榎本武揚が旧幕臣でありながら逓信大臣に就任しているという点がちょっと意外なところです。当時の郵便や無線、電話などの通信は今で言えばITとかAIとか超最新の通信分野ですから、そういう当時の人にとってはあまり慣れていない制度のことは旧幕府時代に留学までしてあちらの事情をよく知っている榎本に知恵を出させようと考えたということかも知れません。榎本は海外移民にも積極的でしたが、こちらの方はあまりうまくいかなかったようです。

伊藤博文が枢密院議長に「転職」することで、首相の座は黒田清隆へと移っていくことになります。



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