明治天皇と徳川慶喜が会見したのは明治31年ですが、司馬遼太郎さんの『最後の将軍』では徳川慶喜は明治天皇との会見にはあまり乗り気ではなく、いろいろ理由をつけて拒もうとしましたが、当時確立されつつあった新政府のいろいろな慣習を無視して、慶喜は紋付き袴で会見するということで実現したとしています。
一方の明治天皇の方は周囲に「慶喜から天下を奪ったのだからな」と話したことがあるらしく、明治天皇も年上の徳川慶喜と会うということについては心理的なプレッシャーを感じていたことを伺わせます。江藤淳先生は「日清戦争の勝利の後で慶喜に会ったということは、それまで明治天皇が新国家の君主として自信を持つのに時間がかかったことを示している」というようなことを書いていて、なかなか穿った見方だと思いますが、やはり明治天皇がプレッシャーを感じていたということを述べていると言えます。
この会見が成立した背景には勝海舟の奔走があったと言われており、勝海舟は「(慶喜は)天皇に会ったことで得意になっている」と語っており、その言いたい放題ぶりと我田引水ぶりを遺憾なく発揮していると評することができるのではないかと思います。
徳川慶喜は明治維新後にわりと早い段階で朝敵指定を解かれていたものの、静岡県でひたすら趣味に生きる日々を送っていましたが、この会見によって徳川慶喜家の創設が許され、爵位も与えられ、慶喜も東京に居宅を移すことになります。名誉が完全に回復されたということもでき、晴れて天下の公道を歩けるようになったと言ったところでしょうか。公式な会見の後は明治天皇夫妻と炬燵に入り、皇后からお酌をされたということですから、通常では考えられないほどの特別な扱いを受けたことが分かります。
勝海舟は他の大名と交際すると格が落ちるので、そういうことはしないようにと助言されていて、慶喜はよく守り、旧幕閣とも交流は盛んではなかったようです。老中だった板倉勝清が静岡県で面会を申し込んだ時はそれを拒否しています。松平春嶽との親交だけは確かに続いたようで、慶喜が書いた西洋画が松平春嶽に贈られたこともあったようです。松平春嶽は一緒に幕政改革に取り組んだ仲で、京都で新政府が誕生した後も、慶喜切腹論が持ち上がった際には明確にそれについては反対していましたから、互いに深い友情を感じていたのかも知れません。
維新後、慶喜は政治に一切かかわろうとしませんでしたが、現役時代の八面六臂ぶりからは政治に対する情熱を充分に持っていたとも思えますので、旧幕閣とも会わず、趣味に生きていたその生活の様子に心中をいろいろと想像してしまいます。
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