前回、『徳川慶喜と勝海舟』で、「多分、徳川慶喜は勝海舟が嫌いだったと思う」と書きましたが、福沢諭吉も勝海舟のことがかなり嫌いだったことはつとに知られています。
福沢諭吉と勝海舟の出会いは咸臨丸でアメリカに行った時のことで、福沢諭吉は一水夫、勝海舟は艦長待遇です。おそらくは言いたい放題でかなりわがままな性格を地で行っていたであろう勝海舟には反感を感じたらしく、後年、船酔いで部屋に閉じこもっていたという些細なエピソードから始まり、明治後期に入って福沢諭吉が自分の言論メディアとして活用していた『時事新報』で書いた『痩我慢の説』では、三河武士なら勝ち負けを考えずに薩長と勝負するのが本来であるはずなのに、負けることを前提にへらへらと和睦して、しかも維新後は新政府の碌を食むとは何事かと「勝安房」と名指しで批判しています。
福沢諭吉と勝海舟はともに明六社のメンバーですが、何かの会合でばったり出会ったときに勝海舟があまりにふざけた服装をしていたので、「あんたアホか(大意)」という風に言ったという話も読んだことがあります(福沢諭吉は大阪育ちですので、かなり重厚な大阪弁を使いこなしたであろうと推量します)。
勝海舟はおしゃべりとおふざけが大好きのちゃきちゃきの江戸っ子ですので誰かにいじられたかったに違いなく、この時は福沢諭吉に悪意ある突っ込みをされてそれでも嬉しかったのではなかろうかと想像します。誰にもいじられないときは、自分から誰かをいじりに行ってうざがられていたに違いないと私には思えます。
福沢諭吉と勝海舟は外交面でも考えの違いがあり、福沢諭吉は金玉均の失脚を経て失意の果てに『脱亜論』を書き、もう、アジアとは関わりたくない、外交は欧米とやればいいじゃないかという主旨のことを書きます。稀にですが、福沢の脱亜論をしてアジア侵略主義の先鞭と勘違いしている人がいますが、それは真逆の解釈で、繰り返しになりますが関わりたくないというのがその趣旨ですから、「侵略」のようなことをすればべったりと付き合わなくてはいけませんので福沢はそういうことを選択肢に入れていません。
一方で勝海舟はいわばアジア連合主義で且つ侵略には否定的でした。勝海舟は李鴻章のところにスパイまで送り込んでいろいろ清朝のことを調べたそうですが(スパイを送ったというのは勝海舟本人の言に拠りますので真相は不明ですが…)、中国があまりに広すぎて日本人に扱いきれるような土地ではないということと、中国人は商売人の文化が発達しているため、計略策略に優れており、その点で日本人はとても敵わないことを主張しています。私も中国語を長く学んで中国人や台湾人と多く話をしましたが、確かにその謀するところの奥深さには恐れ入るところがあり、一筋縄でわかったつもりになれる相手ではありません。その点、勝海舟は慧眼と言えます。その前提で、勝海舟は中国人は敵にするとしんどいが、味方につけるのが得策で、連合して欧米と対抗することをよしとしていたようです。玄洋社に通じる考えです。
思想信条主義主張にどれが正しくてどれが間違っているというものを安易に断ずることはできず、福沢諭吉と勝海舟のどちらがより正しいということは言えませんが、私は個人的には三田会のメンバーとして福沢諭吉先生に肩入れしたいです。ごくごく個人的にですが。