近藤勇とその仲間は将軍家茂の上洛警護のための浪士隊に応募し、清川八郎が浪士隊を私兵化して江戸に連れて帰ろうとする際、それをよしとせずに京都に留まり、あれやこれやと足掻いてみせて出世のチャンスを狙います。
新選組の名が世間に知られるようになったのはなんと言っても池田屋事件で、全てが終わった後の今の時代を生きる我々の視点からすれば、長州に絶対の復讐を誓わせたという意味ではパールハーバー並の禍根を残しましたが、当時としては仮にも京都市中に火をつけて混乱に乗じて孝明天皇を誘拐するなどという馬鹿げた事件を未然に防いだとして大手柄ということになりました。新選組の白地に青を染めた隊服は赤穂浪士をイメージしていたそうで、近藤勇が京都滞在に「男のロマン」を感じていたであろうことが想像できます。
新選組は会津藩にも大いに重宝され、徳川慶喜の面目も保たれたと考えられたかも知れません。後に近藤勇は直参旗本にも取り上げられますので、まさしく大出世、実際によく仕事もしているということで、徳川慶喜と近藤勇の関係はwinwinなものであったと言えます。
しかし鳥羽伏見の戦いの後、新選組は徳川から見放されたも同然の愚連隊になり、流山で近藤勇は大久保大和という偽名を使いますが見破られ、池田屋事件では土佐藩士も死んでいますので長州・土佐両者からの恨み骨髄で切腹すらさせてもらえず、斬首刑にされるという運命を迎えます。土方歳三が近藤勇の助命を頼みに勝海舟に談判しますが、その件で勝海舟が動いたという話も聞きませんので、勝海舟としては慶喜の命がどうなるか分からないというこの時期に、近藤勇どころではなく、黙って泣いて死んでもらおうと決め込んだのかも知れません。近藤勇は新参者とはいえ徳川の正規軍の一員ですので、果たしてこの処断に法や正義はあるのかという疑問はどうしても湧いてきますが、たとえば池田屋事件の時はまだ会津藩お預かりの身であったので、正規の職責としてしたことではない、などの論法で論破するということもあったかなかったか。
明治維新後、徳川慶喜がある人と座談している時に近藤勇の話になり、慶喜は「近藤か…」と遠くを見る目をして涙を流したという話を読んだことがあります。京都で政治をしていた徳川慶喜にとって、江戸の幕閣よりも近藤勇は身近な存在であり、よく仕事をしていたことも知っていて、自分の命は助かったけれど、近藤勇の場合はそうではなかったということを慶喜は腹に染み入るように反芻していたのではないかと私は想像します。
晩年の徳川慶喜について、幕府を見棄てて自分だけ楽隠居のずるいやつと見るか、それとも何があっても動こうとせず、士族の乱にも加担せず、大局をよく知る人であったかと見るかは人それぞれと思いますが、私には彼が深い諦めと韜晦、そしておそらくは後悔を反芻する日々ではなかったかと思えます。
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