徳川慶喜による大政奉還は海外でも世界史を学ぶ人にはよく知られています。「将軍」または「大君」というネーミングがブランド化しており、神聖ローマ皇帝みたいなイメージで語られますので、将軍自らがその権力を手放した大政奉還という出来事はヨーロッパの歴史で言えばカノッサの屈辱なみによく知られており、且つ、細かいことまでは海外では知られていませんから、なぜそんな不思議なことが起きるのかと首を傾げる人も多いように思います。
大政奉還というアイデアを出した人物は必ずしも坂本龍馬が最初というわけでもないらしいのですが、一応、坂本龍馬の発案ということで記憶している人は多いと思います。実際、徳川慶喜が大政奉還をする直接のきっかけになったのは山之内容堂の建白書で、その建白書は後藤象二郎から山之内容堂に働きかけて書かれたもので、後藤象二郎は坂本龍馬からその案をもらっていますので、「坂本龍馬が大政奉還を発案して徳川慶喜を動かした」というのは間違ってはいないと思います。
徳川が政権を返上した後の新しい政府の政権構想では、坂本龍馬は徳川慶喜を中心にした新政府を考えていたとも言われており、大政奉還がなされた時に、徳川慶喜の器量の大きさを知った龍馬は感激し、命をこの人に捧げるとまで書き残し、坂本龍馬暗殺薩摩主犯説が唱えられる背景には、坂本龍馬の慶喜への傾倒が主要因だともされていますので、徳川慶喜は坂本龍馬人生最大の仕事の相手であり、命を落とすことになった原因であったとすら言えますが、その当の徳川慶喜は明治維新後になるまで坂本龍馬の存在を知らなかったようです。
維新後、静岡県に引っ込んで世の中との交わりを絶つようにして生活していた徳川慶喜ですが、維新後にいろいろと刊行された維新秘話モノなどの本は読みまくっていたらしく、それらの書物の中で坂本龍馬の名前を発見し、薩長同盟も坂本龍馬が間に入ってしたということも知り、そんなことがあったのかと驚いたそうです。
幕末維新モノの本については普通の人はだいたい、一般的な意味での興味があったり、知識がほしいと思って読むものだと思いますが、徳川慶喜は当事者ですから、あの時、その時、いろいろ胸の中で去来し、その背景に何があったのか、自分の知らないところでどういう動きがあったのか、納得のいく説明がほしいと思うこともいろいろあったでしょうから、単なる回想ものでも自分と直接関連することとしてついつい食い入るように読んだのではないかと想像します。そして、ああ、あの時のことは背後関係にこういうことがあったのかと合点したり、あの野郎、裏でそんなことを…と思ったり、いろいろだったのではないでしょうか。
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