勝海舟はもともと家柄的にはそんなによかったわけではありませんが、オランダ語と航海技術の習得によって見出されるようになり、幕政にも参加していくようになります。
勝海舟は幕府を中心とした日本連合のような大艦隊を造り、列強に対抗するというような構想を描いていたようですが、国政は幕府が独占するものと考えていた幕閣たちから敵視され、どちらかと言えば浮いた存在になっていきます。
神戸に操練所を設けて坂本龍馬などの浪人を集めて食客三千人みたいな感じになっていき、そのことも幕府関係者から背を向けられるという展開を見ますが、結果としてはこのことが勝海舟の財産になっていきます。
勝海舟の回想録を読めばよく分かりますが、とにかくよくしゃべる。言いたい放題。甚だしいとすら言える我田引水の議論が多く、そういうことで嫌われていたのではないかと思います。アメリカに行く咸臨丸には艦長として乗り込みましたが、正使の木村摂津守とは折り合いが悪く、一水夫として乗り込んだ福沢諭吉も後年、これでもかと勝海舟を非難しています。
徳川慶喜も勝海舟を寄せ付けようとはしませんでした。多分、嫌いだったのだと思います。
嫌われまくって一旦は幕政を身を引くことになった勝海舟ですが、第二次長州征伐で失敗し、その講和のための使者として長州との交渉に臨むため広島へ行くように命じられることで、政治に復帰しています。勝海舟が広島に行っている間に慶喜は将軍に就任しており、海舟の言によると「いつのまにか君臣の関係になってしまった。私は徳川の家臣ですが、あなたの家臣ではありませんよと言った」とのことで、慶喜と海舟という頭の切れる者同士、おそらくは近くにいてもお互いに傷つけあうだけだったでしょうから、慶喜的にも「こいつ、面倒くせぇ」と思ったのではないかという気がします。
その後は江戸に居たわけですが、鳥羽伏見の戦いで徳川軍が惨敗し、あろうことか徳川慶喜が大阪から脱出して江戸に帰還。慶喜は政治からは降りるという決心を固めたことで、後は官軍との話し合いで慶喜の生命と江戸の街を守らなくてはいけないということになり、西郷隆盛とも面識があり、いろいろ顔が広い勝海舟が交渉役になります。神戸の操練所でやっていたことがここで役に立ったと言うこともできると思います。
明治維新後、勝海舟は徳川家中の世話人のような立場になり、あれこれと面倒を見て徳川慶喜に関しては朝敵指定の解除に漕ぎつけ、その後随分経ってからですが明治天皇と徳川慶喜の会見の実現にも尽力しています。その時のことを『氷川清話』では「慶喜は涙を流して自分に頭を下げた」と得意げに語っており、こんなことを他所でしゃべる部下にいたらいやだろうなあと私は一人ごちました。
どうであれ、慶喜にとって勝海舟は命の恩人であり、江戸を戦場にしなかった功労者だという点では変わりありません。能力のあるものは嫌われてなんぼなのかも知れません。