徳川吉宗は紀州徳川家二代目藩主徳川光貞の四男として生まれた人で、普通に考えると絶対に将軍になる順番はまわってきません。しかし、それでも将軍になれたのはどういう事情があったのかというのは気になるところです。
まず、吉宗は紀州家の中で出世していきます。そもそもが徳川光貞の隠し子みたいな扱いだったのですが、まず、光貞の長男が病没します。そういうことはよくあることです。しかし、光貞本人、次男、三男が同じ年につづけさまに病没します。この辺り、単なる自然現象なのかそれともいわゆる吉宗サイドの「陰謀」があったのかは分かりません。しかし、大変に興味深い展開であったと言えます。
仮に紀州藩主の座を目指して、次々となくなった兄弟たちのうち何人かを謀殺したとしても、通常であれば50万石のお殿様になれればそれで充分。その先までについては黒幕なり草の者なりがいたとしても構想していなかったのではないかと思います。
ところが、中央で番狂わせが生じます。五代将軍綱吉に男の子ができません。俄然、御三家に注目が集まるわけですが、それよりももっと注目されたのが甲府徳川家の徳川家宣です。徳川家光の孫にあたる人で、嫡流に最も近く、次の六代目の将軍は家宣で決まります。しかし、ここからが何かがおかしいという気がしないわけでもありません。徳川家宣は就任後僅か三年で病没してしまいます。
すわ七代目は御三家にまわってくるかと色めき立った人もいると思いますが、家宣の子が七代将軍家継として将軍職に就きます。四歳くらいの幼君です。ところが家継もわずか三年で病没します。
その間、尾張徳川家では藩主の徳川吉通が二十代の若さで病死。幼い若君の徳川五郎太が家督を継ぎますが、同じ年に病没します。五郎太のおじさんの徳川継友が新藩主になりますが、ここまでの流れを見る限り、徳川吉宗のライバルになり得る人が次々と病没していることが分かります。
果たしてこんなことが自然に起きるでしょうか。どこかの段階で吉宗のフィクサーなり黒幕なりブレーンなり草の者の長みたいな人なんかが「これはいけるかもしれない。いや、やってみせる」という決心をしたという説明があった方がむしろ自然なことのように思えなくもありません。
吉宗は徳川三卿を設置して自分の嫡流がなくなったとしても、尾張徳川家には絶対に将軍職に就かせないという工夫をしかけておきましたので、戊辰戦争の時に尾張藩が早々に官軍についたとしても不思議ではありません。それこそ毛利氏が江戸時代毎年「殿、今年こそ徳川を」「いや、今年はやめておこう」というやりとりが儀礼化したように、尾張徳川家でも吉宗系宗家を代々呪詛していたとしても不思議でないというか、その方が自然です。
徳川三卿はその後、どんどん増えた徳川氏と松平氏の養子中継所となり、吉宗の意図とは少々異なる位置づけになっていきますが、みんなにとって都合よく回していくという意味では意義ある存在として活用されます。徳川慶喜が絶対に将軍になれない水戸家から一橋家に養子に入って将軍になるという、いろんな意味でのメイクミラクルの下地になったとも言えます。
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