アヘン戦争で大国の清がイギリスに負けたというニュースは幕閣を驚愕させ、後の開国の心理的下準備がなされたと位置づけすることができるはずです。
しかしながら、アヘン戦争のニュースを聴くまで、日本人が西洋文明の進歩と世界の植民地化について全く知らなかったのかと言えば、そういうわけではありません。19世紀に入ってから、フェートン号事件、大津浜事件、宝島事件と、西洋人が日本に来て騒ぎになるということが頻発するようになっており、当時の日本人の視点からすれば「明らかに増えている」と受け取れたはずであり、技術力の高さについても認識されていたようです。
高野長英と渡辺崋山が命を落とすところまで追い詰められた蛮社の獄は1839年で、アヘン戦争が始まる前のことです。高野長英と渡辺崋山は西洋が著しい発展を遂げているので、鎖国はいずれ無理になるという主旨のことを秘密の会で話し合っていたのを責められたわけですが、西洋は既に扉のすぐ手前まで来ているということを知っている人は知っていて、その事実に目を向けたくない人はなんとか隠蔽し、現状維持を保ちたいという摩擦があったことを物語っています。
また、ロシアの南下についても認識はされていて、ロシアに漂着した大黒屋光太夫を日本に連れて来たラクスマン事件があったり、択捉島や樺太で日露両軍の衝突が起きたりしていたことを受け、事態の深刻さに気づいた間宮林蔵が黒竜江まで探検に出かけています。
そのような情勢下でアヘン戦争とその結果である南京条約の締結に驚愕した幕閣が、それまで堅持していた異国船打ち払いの方針を転換し、外国船に対する薪水給与令を出すに至ります。おそらくは西洋の大砲の技術の高さに注目が集まり、江川英龍、高島秋帆が西洋の大砲技術の研究・習得に尽力します。
このように見てみると、江戸幕府は海外の出来事や将来予想されるべき展開に対応する意思を持っていたことが分かり、ペリー来航で見るもの聞くもの全て初めて、宇宙人でも来訪したかのような大騒ぎというのはちょっと脚色が過ぎるように思えます。
19世紀初頭に明らかに強大化している西洋列強に対応すべく、まずは西洋の研究をするというのはまっとうな判断と言えるのですが、幕臣の鳥居耀蔵が西洋研究者の弾圧に非情に熱心だったため、江戸幕府の西洋研究そのものが大きく後退したように思えます。鳥居耀蔵のような人物がいなければ、戊辰戦争を経ずに江戸幕府を中心とした日本型近代化は大いにあり得、19世紀初頭から近代化に取り組んでいれば、西洋との技術的ギャップも冷静に埋めていける範囲ではなかったかとも思えますので、その後の日本の歴史ももうちょっと落ち着いたものになったのではないかなあという気もします。なんだか鳥居耀蔵批判になってしまいましたが、こういう人はどの時代にもどの地域にも居ますので、鳥居耀蔵一人を責めるのもちょっとかわいそうかも知れません。