新井白石とイタリア人宣教師シドッチ

イタリア人宣教師のシドッチは1708年に屋久島に上陸し、直後、地元の人に発見されて長崎に護送されます。長崎ではオランダ語通訳と対面しますが、シドッチはラテン語またはイタリア語を使うため、ある程度の語彙の相似は認められるものの、何を言っているのかはっきりとは分かりません。カトリック宣教師のシドッチは新教国のオランダ人を敵視していたため、出島のオランダ人との直接の会見はためらわれ、襖越しにシドッチと通訳が話すのを聴かせますが、オランダ人もよく分からないと言います。

ただ、シドッチが江戸に行きたいと言っていることは分かったため、それならばそうしようということになり、江戸へ送られて新井白石と対面するという次第になります。

新井白石はシドッチと面会し、来日目的、ヨーロッパ事情、キリスト教の思想などについて質問します。数年後にその時に得た情報を基に、その他の手に入る文献や私見を交えて白石は『西洋紀聞』を書き表すことになります。新井白石とシドッチの対面は遠藤周作さんの『沈黙』でロドリゴ司祭と通訳武士との宗教問答のモデルになっているとも言われていますが実際には違うようです。私が諏訪邦夫さんの現代語訳を読んだ限りではシドッチの覚えたての日本語と新井白石のオランダ語を用いての、おそらくは手ぶり身振りと筆談でなんとなくわかるというのが大半のやりとりであったため、『沈黙』のような気迫のある理詰めの話し合いにはならなかったのではないかと思えます。『西洋紀聞』では、イエスキリストの伝承は仏教の伝承によく似ており、イスラエルがヨーロッパに比べて比較的インドに近い土地であることから、ユダヤ教は仏教を下敷きにしているのではないかという推論を立てていますが、これはシドッチとの対面の際のやりとりでそういう話があったというよりは、飽くまでもシドッチの話を聞いてから、白石が自分で論考したとものではないかと思えます。

キリスト教が激しく迫害されて何十年も経ち、もはやヨーロッパの宣教師も日本への布教を諦めたかのように思えるこの時代になぜシドッチが来日したのかについて、新井白石はシドッチが元禄時代の小判をどこからか入手して所持していたことに着目し、元禄時代に財政難陥った幕府が小判の質を落としたことを知り、日本の国情不安と見て人心に訴えかける好機を見たのだろうと書いています。そこに気づく新井白石も慧眼ですが、金貨の質に着目したカトリック教会もさすがです。ただ結果として元禄はインフレになり空前の好景気に沸いたというのは想定の範囲外だったのかも知れません。

新井白石はキリスト教のあらましを理解した上で、その教えは仏教と似ているが浅はかであるとの結論に達しており、これは何となく、遠藤周作さんの『侍』で長谷倉常長(支倉常長をモデルにしている)が、イエスキリストの福音書の物語を聴いてこんな奇怪な物語を信じることはできないと驚愕する部分に通じているようには思えます。 

江戸の小石川に禁教とされていたキリスト教の信徒または宣教師を隔離・幽閉するための切支丹屋敷があり、シドッチはそこで軟禁されますが、シドッチの身の回りの世話をしていた夫婦に洗礼を授けていたことが発覚し、牢に入れられ、その翌年に亡くなったとされています。劣悪な環境での衰弱死が想像され、火あぶりとかそういうのも酷いですが、衰弱死させるのもかなり酷いやり方のように思えます。コルベ神父を連想させられなくもありません。

最近になって跡地から人の骨が見つかり、DNA鑑定の結果、イタリア人のものである可能性が高いとされ、必然的にシドッチ司祭のものではないかと考えられています。『西洋紀聞』そのものについては新井白石の知的好奇心の旺盛さが感じられて、ちょっといい話なのですが、一方でシドッチの最期は壮絶すぎて、両者の運命の違いというものまで考えさせられます。もっとも、新井白石は八代将軍吉宗の時に「お役御免になったんだから今住んでいる屋敷から立ち退け」と言われ「ざけんな、ここは俺の家だ。絶対引っ越さねーからな」というやり取りがあり、幕府の役人がはてどうしたものかと困っていたら大火事が起きて新井白石の屋敷も燃え落ちてしまうという、へんてこりんな晩年を迎えています。私は密かに、新井白石引っ越し問題をどう解決するかで頭を抱えた役人が故意に火事を起こしたのではないかと邪推しています。

新井白石の『西洋紀聞』は後世にに読み伝えられ、魏源の『海国図志』と並び、幕末の知識人の西洋事情を知るための参考資料になったようです。



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