侯孝賢監督『憂鬱な楽園 南國再見,南國』のやってらんねーぜ感

仮に、もし、映画を観る目的が現実とは違う夢の世界に入り込むことだとすれば、侯孝賢監督はその真逆を作りこむことに熱心な人であり、この人の作品はもしかすると他人に薦められないかも知れないと思うことがあります。侯孝賢さんは常にリアリティを追及し、映画の画面がまるで実際に自分の視界でその現場を見ているかのような錯覚を起こしてしまう映像を作り上げています。

特に『憂鬱な楽園』はそれを極めきっているというか、単に酷い日常を見せられているという気分に私はなってしまいました。主人公の男性は40歳くらいで食堂を経営しています。私生活は結構ガチでヤンキーだという設定になっています。

私は食堂を経営して、ちゃんとやれているだけで充分に素晴らしい職業人だと思うのですが、主人公はその現実に満足しているわけではありません。上海でレストランを開くという夢を持っていますが、資金をなんとかしなくてはいけません。土地の売買の分け前の話にばかり主人公は熱中していきます。

主人公は上海へ行きたくて、主人公の恋人はアメリカへ行くことを計画しています。日本の話題も出てきます。その他、友達の親類はカナダに行っていて、要するに台湾から出たい、というのがこの映画の主旨のようなものですが、なかなか出られない、ちょっと穿った見方をすれば、潜在意識のレベルで土地と深く結びついているのでそこから逃れることができない、そういうメッセージが込められているように思います。中国語のタイトルが『南國再見,南國(南国さよなら、南国)』からも分かるような、こんな毎日は送っていられねー、やってられねー、おさらばしてー。という身も蓋もなくぶっちゃけたやりきれない感じが伝わってくるように思います。

映像はガチでリアルな台湾で、街もきたないですし、食べ方もきたないですし、素行というか挙動がいちいちださくて、着ている服もださいです。なぜ自分はこんなものを観ることに時間を使っているのかと、観ながらだんだん後悔の念が湧いてきます。

ただ、私はここで台湾をディスりたいわけではありません。侯孝賢さんが『童年往事』で外省人を描き、『非情城市』で本省人を描き、その先に『憂鬱な楽園』に行きついたということが気になるのです。

『憂鬱な楽園』の主人公の父親は外省人で、ばしっとした外省人風中国語を話します。主人公は台湾風中国語で、台湾語も普通に使いこなします。この映画はほぼ全編台湾語で展開していますので、私も字幕に頼らざるを得ませんでしたが、要するに外省人の息子は台湾化しているわけで、どれほど上海にレストランを開きたいとかの夢を持っても、心と体は台湾人になっていて、繰り返しになってしまいますが、土地と深く結びついているので、とても違う世界は羽ばたいていけるという風には見えません。ということは『童年往事』で描かれたことをもう一度なぞっている、ただし、世代は一つ下の世代になっているのだということに気づきます。

『非情城市』で登場するようなまっとうで誠実な本省人も『憂鬱な楽園』には登場しません。出てくるのは利権に関心のあるおっさんか喧嘩っぱやい若者か、大人になりきれない40男(主人公)など、碌でもない、全然見たいと思わない人たちばかりです。

私は個人的に日本時代の台湾が美しかったなどと言うつもりは毛頭ありませんが、侯孝賢さんが時代と共に変化する人々の変化も捉えているように思えて「今の台湾ってこんなところだ。やってられねーと思うだろ?」と言っているように思えますし、それでもなおこの土地を愛しているというメッセージもあるのだと受け取ることも可能かも知れません。この映画は日本の資本も入っている合作映画ですが、外国資本が絡む映画でよくこんなの作ったなあと、いろいろな意味で監督の腹の内に関心してしまうのです。

ただ、音楽はもしかすると好きな人もいるかなあと思います。要所要所で中国語のラップが使われています。音楽に詳しい人なら、そこに注目するのではないかなあと思います。音楽がどういう感じなのかをチェックするためだけに一回観てみるのもありだと思います。


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