豊臣秀吉は晩年、織田信長に寝所から引きずり出されて叱責される夢を何度となく見たといいます。想像するしかありませんが、病気が重くなり自分が近い将来亡くなることへの直観、自分の死後、徳川家康に秀頼が押しつぶされるのではないかという不安、秀次とその一族郎党を殺したことへの良心の呵責などが織田信長という巨大な存在に集約されて秀吉の夢の中に出て来たのではないかという気がします。
また、織田信長暗殺秀吉黒幕説に立てば、信長を殺したのも秀吉ですから、そのことも重く彼の心にのしかかったかも知れません。明智光秀の信長殺害に関する毛利に宛てた手紙が偶然にも秀吉の陣営に届くというのも話がうますぎて、あんまり信用できません。また、近衛前久の猶子になって公卿の家柄になり関白職を手に入れるという流れを見れば、近衛前久と秀吉が密某して信長を殺したとする説も必ずしもとんでも説とも言えない気がしてきます。
信長暗殺秀吉黒幕説が仮に都市伝説のようなものだとしても、本能寺の変の後の秀吉の動きは織田政権の簒奪そのものと言ってよく、このことの事実関係に議論があるわけでもありませんし、主家がその当主が殺されて困っている時に漁夫の利を狙っていくというのは、人間的に全然信用できないということの証左でもあり、そりゃ信長に叱責される夢を見るのも無理のないことのように思えます。
『太閤記』みたいなのを読むと、秀吉が信長の草履を温めていたなどのよくできた主従関係のエピソードが描かれていて、できすぎな感が強いわけですが、太田牛一の『信長公記』では少年時代の信長は結構な悪ガキで行儀も悪く、不良仲間と肩を組んで連れ立って練り歩いていたそうですから、ヤンキーカーストの頂点に立つ信長の目からすれば、秀吉は自分の分をよくわきまえて従順なパシリだったという風な感じで
したでしょうから、使いやすかったのかも知れません。
ヤンキーカーストの世界では強い者と弱い者がはっきりと区別され、席次のようなものも明確になっており、そういうのに馴染めない人物は村八分みたいにされてしまいますので、ローンウルフを選ぶしかなく、芸術家になったり(成功するとは限らない)、坊さんになったりしたのだと思いますが、カーストの内側にいる場合は、力さえあれば逆転したい、下剋上したい、席次を上げたいと思うのが常とも言えるでしょうから、秀吉の場合は正しくその夢を実現したのだと言えますし、且つ、それによって得られる現世的な楽しみを存分に享受したとも言え、おめでとうというくらいのことを言ってあげてもいいですが、清須会議や秀次事件を見ると、「姑息」「ずるがしこい」という言葉どうしても私の頭に浮かび、利休切腹のことを考えると「小さい男」という言葉が浮かび、朝鮮出兵や天皇の北京行幸計画などについては無謀、アホ、現実認識の歪みなどを感じてしまいます。
秀吉のことをただあしざまに述べてしまっているだけになってしまった感がありますので、少しは褒めることも述べようと思いますが、彼の子飼いの家臣たちの忠誠心は非常に高いもので、そこは人の心を掴むのに長けており、この人のためなら死んでもいいという武将が何人もいたという事実は称賛されるに価することではないかと思います。石田三成と加藤清正は互いに憎み合う関係で、殺し合いにまで発展しますが、豊臣氏への忠誠という立場では同じで、関ケ原の戦いの後も豊臣秀頼がかくも大切にされて敬意を集めたのも彼らの忠誠心の高さ故という気がします。秀吉の弱点は一代で天下を獲ったために譜代の家臣がいなかったことだという指摘を読んだことがありますが、たとえば幕末では徳川の譜代大名や旗本たちは結構役立たずで、長年仕えた家臣が頼りになるとは必ずしも言えないという気もします。
やがて全部家康がもらい受けることになりますので、いろいろあってホトトギスですね。