徳川家康と三浦按針



イギリス人航海士のウイリアムアダムスは、ロッテルダムでオランダ船籍のリーフデ号に乗り込み東洋への航海に出発します。しかし、他国船に襲われたり、寄港先で現地人に襲われたりして人員が減少していき、残り少ない乗組員たちとともに、彼は豊後の国、今の大分県に漂着します。

関ケ原の戦いの少し前の時期、徳川家康が彼と面会し、西洋事情をいろいろと問い質します。ウイリアムアダムスを江戸に招き三浦按針という名前を与え、250石の知行も与えて彼を外交・技術顧問として重宝したようです。この他にも同じ船に乗っていたオランダ人航海士のヤンヨーステンにも名前を与え、江戸で屋敷を与えたといいます。ヤンヨーステンは耶揚子という名前を与えられ、今の東京駅の八重洲口の「八重洲」は耶揚子がなまったものであると伝えられています。織田有楽斎の屋敷があったから有楽町というのと同じ感じです。他にもリーフデ号の船長だった人物も徳川家康に仕えたと言われます。

ヤンヨーステンと船長はオランダに帰国するための航海でなくなってしまいますが、三浦按針は日本に残り、50歳以上まで生きて日本で亡くなります。当時としてはわりと普通の年齢で、充分に生きて死んだということができるかも知れません。
イギリス東インド会社のクローブ号が貿易を求めて平戸に来た際、三浦按針には帰国するという選択肢もあったようですが、彼は日本に留まりました。その心境というものは想像するしかありませんが、知行も与えられて専門家扱いされていたので、日本の居心地がそこまで悪いというわけではなかったのかも知れません。

三浦按針は日本人女性と結婚し、息子のジョセフと娘のスザンナをもうけたとされており、息子のジョセフは二代目三浦按針として貿易などをやっていたようです。ただし、ジョセフの晩年については知られておらず、その後、子孫が続いたかどうかも分かっていません。日本がヨーロッパとの貿易を制限する方針をとったことで、ジョセフはあまり活躍の場を得ることができなくなったのかも知れません。アンボイナ事件により、イギリス東インド会社の劣勢が決定的となり、ヨーロッパの対日本貿易はオランダが独占するようになっていきますので、そのこともイギリス人の血を引くジョセフの人生に影を落としたのではないかとも思えます。子孫がいるという噂もあるようですが、何代も続くうちに見た目も普通の日本人なのかも知れません。また、子孫の方がいらっしゃるとしても、ご本人もそのことを知らないとかそういう感じかも知れません。

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