織田信長と上杉謙信



織田信長が天下人と呼ばれるような超ビッグな存在になるうんと前のこと、織田家家中の内輪の争いに勝ち抜き、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った後、信長の主たる攻略目標として美濃を目指すようになりますが、その間、それ以外の脅威となり得る相手には確信犯的に丁寧な懐柔をしています。

武田信玄には念の入った高級な漆の箱に入れた贈り物を送り、上杉謙信に対しても大変にへりくだった手紙を送っています。信長は足利義昭や正親町天皇に対してもへりくだった書き方の手紙をよく出していますので、剛毅なイメージに反してよく言えば礼儀正しい、悪く言えば腹黒い一面も持っていたようです。自分より格下の相手、たとえば徳川家康に対しては妻と息子の命を差し出させるところまで追い詰めたりしていますので、相手が自分より強いか弱いかでの態度の変わり方の激しい人だったのかも知れません。

信長が上洛を果たした後、上杉謙信に源氏物語の屏風を贈っていますが、上杉謙信は源氏物語を愛読していたとも言われており、それが上杉謙信は女性だったとする説の根拠にされていますが、ある人はこれをして「どうだ、俺は源氏物語の舞台になった京都を獲ったぞ」というメッセージであったと解釈することもあるようです。

私はどちらかと言えば後者のように思えます。織田信長は武田信玄と上杉謙信の存在に対して強い緊張感を持っていたと言われますので、やはり「どうだ。あなたのお好きな室町幕府は私の持ち物同然で、朝廷からも頼りにされてるから、凄い絵師も雇うことができて、こういう屏風を他人にくれてやることもできるのさ」というメッセージを込めたくなるのではないかとも思えます。今言えばクレジットカードのランクを見せびらかしたりするのと同じかも知れません。そのように考えると、信長ってちょっとやなやつという気もしてきます。

さて、時が経ち、織田軍と上杉軍が北陸の手取川の戦いが行われます。織田軍は長篠の戦で圧勝した直後ですので、おそらくは意気軒高、戦う前から熱に浮かれてしまう面もあったかも知れません。「勝てる」と思い込んでいたかも知れません。

能登半島の七尾城を目指して柴田勝家が率いる織田軍が進軍しますが、織田陣営についていたはずの七尾城が上杉側に寝返っていたことをその手前の手取川を越えたところで知り、慌てて引き返そうとしますが、川は増水しており、上杉軍の追撃があって多くが溺死したといいます。火縄銃をたくさん持っていたことで長篠の戦で勝利した織田軍はこの戦いでは大雨で火縄銃が使えずに惨敗したという考えもあったようですが、最近は織田軍だけが圧倒的な火力を持っていたというわけでもないらしいというふうに歴史の解釈が変わっているようで、大雨で火縄銃が使えなかったから惨敗した説はあまり言われなくなっているようです。

織田信長は当初から上杉謙信に対してびびっていたはずですから、手取川敗戦は心理的にも相当に心理的ショックを受けたはずですし、上杉謙信が上洛の意思を持っていたことも確実視されていますので、これは結構やばい状況だったと言えると思います。

ただ、翌年に上杉謙信が脳溢血のような状態で倒れて亡くなってしまい、上杉軍は当面沈黙。信長は一息つける状況になります。晴れて安心して武田勝頼を滅ぼしますが、それから日を経ることなく本能寺の変が起きます。人生とは分からないものです。

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