真田丸の戦術的効果

豊臣秀吉が築いた大阪城が難攻不落とされた所以は二重の堀にあります。特に外堀の場合、背後に淀川という幅の広い川があり、そこから水を引き込んで周囲も川の水で満たしていたわけですが、仮に敵が侵入を試みた場合、水があるとどうしても動きが緩慢になりますので、銃でねらい撃ちできるという効果が期待できました。

銃が西洋から伝来する前から弓矢を用いても同様の効果が期待できたと思いますが、当時は銃の保有数が日本は世界一で、基本的に戦争は銃でやるもので、銃撃をくぐりぬけて来た敵がもしいたとすれば接近戦で刀や槍を使うというようのが一般的だったと理解しています。もっとも、銃は専門性をある程度要求されますので(たとえば私は使い方を全く知りません)、銃の担当者は専ら銃を用い、敵が銃撃をくぐりぬけて来た場合は槍や刀の別の部隊が前面に出ていくということになると思います。また、銃は走りながら撃つとあんまり命中しませんし、突撃中の場合、味方の背中に当たる可能性もありますので、攻める側は当時はやはり刀と槍を重視せざるを得なかったとも思います。

さて、いずれにせよ、堀の水辺でまごまごしている敵を銃撃することを想定して作られた大阪城でしたが、南側の堀だけ水がなく、仮に敵が進撃してくるとすれば、空堀の南側から来るのではないかという危惧が豊臣サイドにはありました。そこで真田幸村が丸く湾曲に突出した砦を築いたのが真田丸です。一体、このような丸いものを突出させて何の得があるのかと私は子どものころ不可思議に思っていましたが、突出した部分があると、敵に対して十字砲火を浴びせることができるという利点があります。

一方からだけの射撃ですと、敵が遮蔽物に身を隠せば足止めはできても討ち取ることはできません。また、ワンサイドからだけの銃撃ですとやがて死角を悟られてそこを狙われてしまいます。ところが十字砲火を浴びせることができるとなると、双方から身を護る遮蔽物はそう簡単に見つかりませんし、移動式トーチカでも用意しなくてはいけないということになります。また、同時に二倍の銃弾を撃ち込むことができるため、下手な鉄砲数撃ちゃ当たるを地でいくことができ、とても有利になります。

要するに凸凹にさえなっていればそれでオーケーで、凸凹形式を発展させたものが北海道の五稜郭になります。五稜郭はよく見ると五芒星のそれぞれの突端が更にぐにゃぐにゃとしていて、十字砲火を何重にも浴びせられることを狙った構造になっています。

この真田丸を作ったことにより大坂冬の陣では真田幸村は見事大阪城を守り抜き、徳川家康は諦めて一旦休戦というか、外堀を埋めるという条件で講和します。ですが、徳川方が内堀も埋め始めたために「話が違うじゃないか」と決裂。大坂夏の陣になります。大坂夏の陣では堀がなくなってしまったために籠城戦は不可能と見て真田幸村は野戦を選びますが、あと一息というところで戦死してしまいました。

大阪で徳川家康がやたら不人気なのは、いちゃもんつけて騙し討ちというのが理由として挙げられると思います。ただ、豊臣秀吉も織田政権乗っ取りの時に随分あこぎなことをしていますので、どっちもどっちと個人的には思います。

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