織田信長は1568年に足利義昭を擁立して上洛します。上洛途中、六角氏を蹴散らす程度のことはありましたが、わりと楽勝で入った感があり、入洛後の近畿平定も松永久秀が降伏したことで、一旦はいろいろ丸く収まったように見えなくもありません。
足利義昭は信長に対して「私はあなたのことを兄のように思っています」と伝え、信長も礼儀のある返信をしており、両者はwinwinの関係ですから、互いに利用しあおうというか、感情面でも仲良くしようと努力し合っていた様です。
足利義昭の心中、どの時点で信長打倒を決心したかは分かりませんが、義昭の心中としては1、自分が将軍なのに信長に頭が上がらないことの居心地が何とも悪い 2、信長のおかげで将軍になれたことは分かっている 3、一時期世話になった朝倉義景に対しては「一生見棄てない」と言って別れたのに、信長と朝倉氏の敵対は決定的で、自分が信長の世話になって京都の安全圏にいるのは罪悪感があるなどの背反する諸事情が去来したに違いありません。
ただ、信長が一向宗を弾圧し、比叡山をも攻撃したことは、信長を非難するには絶好の材料になったとも言え、そのような宗教的な事由が足利義昭の背中を押したのではないかという気がします。武田信玄が足利義昭の要請を受ける形で信長征伐に乗り出したのも、比叡山事件という当時の倫理観から見れば共通して批判の対象になる事由があったからとも言えます。
織田信長は浅井朝倉との戦争に忙しかったため、背後から武田信玄が攻め上ってくるのはいかにも都合が悪く、大変に厳しい状態に置かれつつあったと言えます。とはいえ、朝倉が早々に撤退して逆に信長に追い打ちをかけられて滅亡していますので、天祐のようなものはこの時点ではまだ信長にあったのかも知れません。
しかしながら、武田信玄は三方が原の戦いで徳川家康を惨敗させ、いよいよ織田信長と対決するという直前に病死し、武田軍は静かに甲斐へと帰って行きます。武田信玄vs織田信長の戦いが実現していればかなりのドリームマッチ、クライマックスシリーズで、実際にどっちが勝つか見てみたいという気持ちにはもちろんなりますが、あと一歩のところで実現はしませんでした。
絶妙のタイミングで武田信玄が病死したことは、織田信長の運勢の強さとしか言いようがありませんが、運が悪いのは足利義昭の方で、武田信玄が死んだことも知らずに京都で信長に反旗を翻します。信長は和平を模索し、飽くまでも足利将軍を立てようとしますが、足利義昭の方がなかなか観念せず、追放され毛利元就の世話になるという展開になります。
織田信長は旧秩序の破壊者として理解されていますが、一方では足利義昭や正親町天皇と敵対することは極力避けており、様々見方が可能ですが、天皇家を廃して自分が日本の頂点に立つということはあまり考えていなかったかも知れません。安土城には天皇の御座所も用意されていたという話で、朝廷の安土移転は考えていたかも知れないですが、天皇家存続を前提としていことの証左だと言うことも可能です。
その後、信長にとって脅威となった上杉謙信も病死し、ますますその強運ぶりに感嘆するしかありませんが、足元が掬われるようにして本能寺の変で亡くなってしまいます。命運尽きればどんなに凄い存在であってもあっけないものだなあと感想に行きついてしまいます。
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