武田信玄の父子関係の陰



武田信玄は政治家としては有能で、戦争にも強かったことで知られていますが、彼が暗い父子関係を経験していたこともよく知られています。

有名なのは武田信虎の追放ですが、これはどうも今川義元との密約があったらしく、武田信虎が駿府の今川を訪問した後、甲斐へ帰国しようとする際に国境を閉ざして父の帰宅を拒絶しています。

信虎に人間的な問題があったという指摘もあるようですが、家臣団の支持がなければ却って武田信玄が家臣団に殺されることもあり得ますので、武田信玄本人、家臣団、更に今川氏と関係者が事前に同意した上での追放劇だったようです。武田信玄は今川氏に信虎の生活費を送っていたとされており、一番確実なのは殺してしまうことかも知れませんが、さすがにそれは躊躇われたということなのだろうと思います。信虎追放についてはどうしても信虎が人間的に問題があったという取り繕うのような記述だけが残り、実際のところは分からないわけですが、信虎によって潰された家が復活していることから、やはり武田信玄と家臣団との間に充分な了解があったのだろうと考えることができます。

もし以上のことだけで済むのであれば、武田信玄の戦略家としての一面を語るだけで終わるかも知れないのですが、武田信玄の息子の武田信義も不審な死を遂げており、そこに暗い影をどうしても見てしまわないわけにはいきません。『甲陽軍鑑』では、武田信義が謀反を計画し、その事件の発覚後に東光寺というお寺に幽閉され、二年後に亡くなったされています。死因については不明なままですが、殺されたか、自決したか、自決させられたかのいずれかと考えるしかありません。

その背景には武田信義の今川氏の娘と政略結婚しており、結果、信義が今川派となってしまい、武田信玄の今川侵攻の方針と対立したからだともされていますが、やはり死ぬところまで追い込むところに非情さを感じざるを得ません。

フロイト的にエディプスコンプレックスである程度は説明できることかとは思いますが、武田信玄が父の信虎は追放するだけに止め、息子の信義は死ぬところまで追い詰めたのは何故なのだろうという疑問も残ります。もしか息子から見て父はどうしても偉大な存在に見えやすく、信虎の命を獲るのは怖かったのかも知れません。一方で、息子に対しては自分の所有物だという意識が当時の人物であれば当然持っていたでしょうから、自分の所有物を煮ても焼いても構わないと考える非対称的な人間関係が作られていたのかも知れません。家族を愛することが極端に苦手な人だったのではないかとも思えます。

武田信玄の父との関係、また息子との関係を見ると、そこに「歪み」を感じます。しかし、人は誰しもが何らかの歪みを持つもので、武田信玄にも歪みがあるのは普通のこととも言えます。ただ、彼の場合は自分の歪みに対する自覚があったのではないか、それ故に戦いになったら相手の心の歪みを見出してそこを衝いていくこともできたのではないかとも思います。三方が原の戦いは半分は徳川家康との心理戦で、徳川家康は武田信玄の狙い通りに出撃して、待ち伏せされるという展開を見せます。そのように相手の心を見透し、見えない糸で相手を動かしてしまう力があったのも、自分の心理的な歪みに対する自覚ゆえのことかも知れないと思います。最近の流行の言い方で言えば、自分を受け入れることで弱点を克服する、というような感じで言えるかも知れません。

信長が本能寺の変で死んでしまうのは、京都は既に完全にコントロール下にあって安全だと思い込みたいという信長の心理が働いていたと見ることもでき、そういう意味では信長には焦りがあって、現実を受け入れなかったために招いた結果と言うこともできます。朝倉義景も今自分が引いても問題ないと思いたいという願望が現実に対する認識を誤ったとも言えます。

その辺り、武田信玄は自分の願望や恐怖と現実を混同することを避けることで戦国最強と呼ばれるほどの成果を挙げたと捉えることもでき、現代を生きる我々にとっても参考にできる部分があるのではないかとも思います。

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