武田信玄が生涯で最も手こずった敵と言えば、村上義清かも知れません。武田信玄は諏訪氏の領地を奪い、続いて信濃の村上義清を攻めますが、村上義清は二度にわたり武田信玄の軍を撃退しています。
一度目の戦いは1548年の上田原の戦いで、武田軍は1000人近い損害を受けており、詳しいことは分かっていないものの、主として村上義清が攻め時をよく心得ていて、言うなれば戦場に於ける技量によって村上義清が勝利しており、個人的な村上義清の戦闘能力が非常に高かったものと推量できます。
二度目は1550年の砥石城の戦いで、村上義清が守る砥石城を武田軍が攻めるものの、惨敗し、撤退する武田軍に対する村上義清の追撃は激しく、武田軍に相当な被害が出たとされています。武田信玄の家臣の真田幸綱が策略を用いて城を乗っ取り、村上義清は上杉謙信を頼って信濃から越後へと移動します。
その後、上杉謙信と武田信玄の川中島の戦いが繰り返されることになるわけですが、上杉謙信のようなやっかいな相手を信玄の敵として引っ張り出してきたのも村上義清によってなされたものと言えますので(武田信玄が領地を拡大すればいずれはぶつかっていたと見ることもできますが)、武田信玄から見れば、ただの地侍みたいな村上義清が最も手ごわい、多大な犠牲を要する相手だったということができそうです。
武田信玄は諏訪氏攻略では、婚姻関係によって諏訪氏の取り込みを図り、今川氏攻略では徳川家康と示し合わせ、織田信長を討つ目的で上洛を目指した時も浅井朝倉、足利義昭との同盟をした上で軍を動かしていますので、直接戦闘の力押しというよりは密某、策略をよく使って目的を果たしています。三方が原の戦いも半分は心理戦です。そういう意味では、村上義清のような真正面からぶつかってくる相手に対しては実はそんなに強くなかったのかも知れません。日本最強の武田騎馬隊というのも実際にはそこまで戦闘力が高くなかったという指摘もあります。私は乗馬をしないので、馬のことはよくは分かりませんが、武田信玄の騎馬隊が使っていたであろう木曽馬はサラブレッドほど大きくもなければ速く走ることもできないらしいです。ということは、武田信玄=戦国最強騎馬軍団というより、武田信玄=智謀の人の方がより実像に近いかも知れません。
村上義清にとって最も憎い相手は武田信玄で、武田信玄にとってもっとも気になる人物は村上義清だったのではないかと私は思います。度重なる川中島の戦いでも、向こう側には村上義清がいるのだなあと感じていたのではないかとも思えるのです。
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