『牯嶺街少年殺人事件』をデジタルリマスター版で観た話

多分、個人的には台湾映画の中で『牯嶺街少年殺人事件』がベストに入ると思います。デジタルリマスター版で観ると、映像が綺麗で、しかもちょっとばかし古い映画ですからフィルムの質感もあって、作品の世界にひきこまれる、とても凄い映画だということが改めて分かります。

ただ、四時間ありますから、やっぱり長いです…。内容も濃いですから、かなりエネルギーを使いますので、観終わった後は消耗している自分に気づきます。

最初に観た時と違い、内容も知っているし、結末も知っているからかもしれないのですが、結末へ向かいみんなの心の調子が崩れていく、色々なものが一歩一歩、少しずつ、しかし着実に狂っていく姿が描かれていることが理解できます。

実際に起きた殺人事件を基にしているということですが、映画ですからとても綺麗に描かれていて、真相はこんなものではなかったのだろうと思いますが、十代のきらきら感とやり場のないエネルギーのバランスの取り方の困難さのようなものが伝わってきます。

映画の終盤で殺されてしまう女の子の内面に魔物がいるということもよく分かります。是非善悪とかそういうことではなくて、男のいろいろなものを狂わせてしまうものを生まれつき備えている、エドワードヤン監督はこの少女をそういう感じに描きたかったのだろうと思います。はっとするような美しい女の子です。

子どもだけではなく、大人の生活にも狂いが生じて行きます。大人と子供ではパワーが違いますから、或いは大人の生活の狂いが子どもに影響して、事件に発展してしまったのかも知れないと考え込まされます。

主人公の少年の両親は外省人で、国民党と一緒に台湾に渡ってきましたが、何の因果で知らない土地で暮らさなければならないのかという嘆きがあり、どのみち中国へ帰れないという深い諦めがあり、日本人から接収した家に住んで、希望がなく、追い詰められた空気の中で生きています。外省人の心情について日本で語られることはあまりないように思いますので、外省人の心中をうかがい知るというだけでも一見の価値のある作品のように思います。独裁、密告、戒厳令の時代で、お父さんは意味不明の疑いをかけられて長時間の尋問を受け、最終的には釈放されますが、心の中の何かが壊れてしまい、お父さんの大切にしていた上海で買ったラジオも壊れてしまい、職場も失います。

そういう鬱屈した行き場のない息苦しさの逃げ場を主人公の少年は女の子に求めようとします。しかし、それは「愛」とは違う何かであって、時に女の子たちはそれを敏感に感じ取り、主人公の前から立ち去って行きます。

引いた目で見れば、女の子に振り返ってもらえないことによって生じるストレスに耐え切れず、事件を起こしてしまったわけですので、大変に幼稚です。ただ、それをここまで美しく撮ってしまうことについて、演出の勝利と言う以外の言葉は見当たらない気がします。

映画の中に、映画関係者が登場します。主人公の少年が「映画は嘘を映してるじゃないか」と言い捨てる場面があります。映画関係者は言葉を失い立ち尽くします。全体に暗くて重苦しいて作品ですから「これは映画ですよ。作り物なんですよ」ということを観客に思い出させる必要を感じて挿入された場面なのではないかと思わなくもありません。

台北市内がとても汚い街に見えますが、リアルです。台湾映画には台北を綺麗に撮ろうと努力している作品もありますが、むしろリアルに撮った方が人間のエネルギーを感じられ、その分、美しいと感じられる気がします。人の心の機微、ひだ、あやが細かく描かれています。この作品を観てしまうと、それ以降の台湾映画はこれと同じものをもうちょっとマイルドに作ろうとして上滑りしているという印象すら抱いてしまいます。凄い映画です。




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