侯孝賢監督『非情城市』の日本人と外省人と内省人とラジオ

この映画では、冒頭から昭和天皇の終戦の詔勅のラジオ放送が流れます。そのラジオ放送を背景に子どもが生まれるという場面になっています。日本帝国の滅亡が宣言されているその瞬間、新しい命が生まれて新しい時代を生きることになるわけですが、その子供が果たして本当に幸福に生き抜くことができるのか?という問いかけがなされているように感じます。

この映画の主題は戦後すぐのころに台湾で国民党系の外省人と内省人との間で起きた228事件とその後に続いた白色テロですが、侯孝賢監督は外省人の息子ですから、果たしてそのような人物に真実に内省人の内面を描くことができるのかという議論がされたこともあったようです。

私は何度か繰り返してみているうちに、侯孝賢監督本人が台湾は自分の故郷であることを認め、それを受け入れ、時間をかけて丹念に内省人の内面を観察し、よく考え、自分の良心にも反しない姿勢でこの映画を作ったのだということを感じ取れるようになった気がします。

228事件とその後の白色テロは主として国民党という新しくやってきた権力による不当な弾圧であることは言うまでもないことですが、同時に外省人が内省人に狙われるケースがなかったわけではなく、言い方はよくないのですが、ある種の殺し合いのような様相を呈していたとの話も私は聴いたことがあり、この映画の中ではトニーレオンが耳が聴こえずに話ができない内省人という設定で登場しますが、トニーレオンが外省人狩りをする内省人に「外省人だ」と判断されて襲われそうになるという場面も短いですが挿入されています。228事件を語るにあたり、そのことを省略することはできないと侯孝賢氏は考えていたのではないかと私は想像します。

全編ほぼ台湾語の作品で、主役で招かれた香港人のトニーレオンは当初は台湾語の台詞を話す予定でしたが、どんなに練習しても台湾語がうまくならず、やむを得ず話せない人という設定に変更したそうです。

結果としては、背中で語る、表情で語る、動きで語る、声なき声で語るという味になっていてより印象に残る、ぐっとくる演出になっていると思えます。

この映画をみて「詰まらなかった」という日本人に多く会いました。228事件とその後の白色テロについて多少なりとも知識がないと何のことかわからない映画です。詳しいことを分かるように説明してくれる映画ではありません。事情を知らない人が観ても「つまらない」と思うのは自然なことだと思います。私も最初に見たときは228事件のことは知りませんでしたから、「退屈だ」としか感じませんでした。

作品中、浙江なまりと思しき中国語で戒厳令について述べるラジオ放送が何度か挿入されます。北京語を覚える前はこの場面の意味がよく理解できなかったのですが、北京語を覚えてからこの放送を聴いてみると、浙江なまりというのは一つのポイントになっていて、いかにも他所から来た人が台湾人を支配しているというのがより生々しく伝わってくるというのが理解できます。1945年から1949年までの時代を扱っているので、蒋介石本人のラジオ放送ではなく、当初の行政長官だった陳儀によるものと思います(蒋介石も陳儀も浙江省出身なので、どちらも浙江省なまりが強かったようです。蒋介石の音声を聞いたことがありますが、いわゆる北京語の発音とは随分違ってなまっているなあという印象を受けたことがあります)。このラジオ放送は映画の冒頭の昭和天皇のラジオ放送と同じ役割を果たしており、政治的な意思決定は全て台湾人の声ではなくそれ以外の土地の人の声で宣言され、しかも相手は電波ですから台湾人には指一本触れることができないということへの無力感を象徴するものであるように思えます。

映画の終わりの方で、トニーレオンと恋人が結婚し、子どもが生まれます。侯孝賢監督は1947年生まれですので、その赤ちゃんに自分を擬しているのではないかなあと思えなくもありません。

映画に歴史の真実を映すことはできません。映画の役目は人の心の中の真実を映すことではないかと私は思います。ですので、この映画だけで実際の228事件について語れるようにはならないと思いますが、台湾でなぜこのような映画が物語られたのかを考える意義は大いにあるのではないかと思います。

この映画では一人の日本人女性が登場します。戦争中にお兄さんが特攻隊で戦死したらしいことが暗示されています。凛した感じの穏やかな女性なのですが、やがてこの女性は引き揚げていきます。私は日本人の女性が登場することには彼らの心象風景を知る上で大きな意味を持つのではないかと思います。『海角七号』でも登場する主要な日本人は女性です。「日本人=女性的な穏やかさ」という心象風景が持たれており、それ故に『海角七号』はかくも台湾人の心を捉えたということも可能なのではないかという気がします。

『海角七号』『セデックバレ』『KANO』の三部作はセットで観ないと制作者が何を言いたいのかというのがよく分からなくなってしまうのですが、『セデックバレ』では「警察官」と「日本軍」というお決まりの悪い男たちがぞろぞろと登場し、『KANO』で永瀬が優しくて大きな愛で台湾の若い人を包み込むという流れになっており、台湾人が日本人をどのように見て何を期待しているのか、通して観るとよく分かってくるように思えます。

付け足しになりますが、『非情城市』の最後の最後の方では、トニーレオンが白色テロでどこかへ連れ去られてその生死すらわからなくなってしまうことが観客に告げられます。そして残された家族が食事をしている場面で終わるのですが、食事をする場面はそれだけで多くのことを物語る難しいと言えば難しい、やりやすいと言えばやりやすい場面のように思います。『ゴッドファーザーpart2』の一番最後の場面が雑談しながら食事する家族の姿であり、あの短い時間で多くのことを語っています。映画の食事場面は実におもしろいというか、重要というか、見逃せない場面と言えるかも知れません。



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