『源氏物語』は平安貴族の生活を知るのに役立つ書物ではあると思いますが、光源氏の所業から、平安貴族が奔放だったと理解するのはもしかすると若干、早計かも知れません。
というのも光源氏は血統はぴか一な上に臣籍降下した自由の身で、且つ、なんといっても神様級の美しさでどこでも評判になっているために女性の方が関心を持っているからこそ多くの恋愛を成就させており、しかも「ばれると困る」というのがいつもついて回りますから、やはり光源氏だけが特別で、通常の場合は現代と同じか、あるいはもっと保守的だったのではないかという想像が働いてしまいます。普通だったら男がいくら通ってきても簡単には入れないものの、光源氏だからついついその魅力に抵抗できなかった、或いはそれぐらいのぴか一に突出した男でなければあちらこちらへ遊んで歩く資格はないのだ(by 紫式部。想像)と著者は考えていたのではないかという気もします。
また、光源氏は本当は自分の子なのにその子が天皇の子として扱われる、他人の家の子を勝手に連れて帰るなどの無茶ぶり、無理ゲーをしているケースが多く、当時としてもタブーなこと、やってはいけないこと、あってはならない衝撃的な内容が書かれていますので「飽くまでも物語であって、通常はそうはいかないのだ」ということなのではないかとも思えます。
特に夕顔の場合、密会中に死んでしまいます。嫉妬をする六条御息所の生霊によって命が失われたと受け取るべきかどうかで議論が分かれるようですが、そこはともかく、密会中に死んだのがばれるといろいろ困るのでこっそり葬儀をしてしまうことの方が問題です。夕顔の家では夕顔がいなくなったことで心配しますが、探しようがありません。死んでますので絶対に帰ってきませんから、待てど暮らせどどうにもなりません。また、お坊さんにお葬式をやってもらうにしても、お坊さんはどこのだれか分からない人のために念仏を上げるという非常識なことを承諾させられます。
現代であれば、密会中に女性が命を落とすようなことがあった場合、当然、まず、痴情のもつれが原因ではないかと相手の男性に疑いがかかります。私は夕顔が死ぬところを読んだとき「これって実は光源氏がやったのを作者がぼかしているのでは…」と考えてしまいました。むしろその方が合理的と言えるはずです。
いずれにせよ、夕顔が亡くなった後、葬儀こそ密かにとはいえ済ませ、後は全く素知らぬ顔をして他の女性に恋心を抱いて心を痛めたり悩んだり、純愛を口にしたりする光源氏に対して、いろいろな意味で「こいつ、すげぇな…」という感想を抱いてしまいます。
人の死に関わるような重大な秘密をたった一人で処理しまうことは不可能で、秘密を共有する周辺者がいるわけですが、その人たちが一様に悩む光源氏に同情し、光源氏のためならどのような骨折りも厭わず、お役に立てることに幸福を感じています。いろいろな意味で凄いというか、人間を超越しています。
平安時代の人も「まじか?そこまでやるか?」と思いつつ読み進めたのではないかと思います。