後白河天皇の人生観

後白河天皇というよりも、後白河上皇としての方が映画やドラマにはよく登場することが多いと思います。たいていの場合、あまり「善玉」な感じで描かれることは少ないように思います。時の実力者におもねり、権謀術策を弄する老獪な印象の人という感じです。

もともと後白河天皇は雅仁親王と呼ばれ、将来天皇になることはないと考えられている人物でした。ところが近衛天皇が急逝したことで、崇徳上皇の血統の重仁親王へは皇位を譲りたくないという勢力のある種の談合というか、結託というか、そういうものの結果、雅仁親王はもういい加減いい年で(29歳)、天皇になるための教育も受けているわけではないから必ずしも天皇に相応しくはないけれど、その息子を天皇にすることで、その間の中継ぎという条件で即位します。

棚ぼたと言えば棚ぼたですが、今様でもやって遊んでいればいい人生が政治の世界に引っ張り込まれることになって恐怖を感じたのではないかという気がしなくもありません。

その後、崇徳上皇が保元の乱で失脚し島流しされる姿を見た後白河天皇は自分も一歩間違えばああなると感じたのではないかと思います。そして、そうならないためには、天皇または上皇単体では無力に等しく、確実な味方を常にそばに置き、且つ、そのライバルを外に設けておくことで競わせ、自分の安泰を計るというやんごとなきお方とはちょっと思いにくいような高等戦術を展開していくようになります。

その後当面の間、後白河天皇の養父の信西が政治の実権を握りますが、平治の乱であっさりを命を落とし、平清盛が自分に味方してくれなければ(平清盛が藤原信頼につく可能性充分にあったと思います)、自分は生涯幽閉の身になっていたかも知れず、そう思えば一時は無双に思えた信西の人生も儚いもので、やはり頼りになるのはパワー、武力、敵を物理的に破壊できる実力というものを信じるようになったのかも知れません。

平清盛との同盟関係の次は木曽義仲と手を結び、次いで源義経に官位を与えて、義経と頼朝の間の勝負がつけば頼朝とも面会を重ねるという、見事と言っていいほどの世渡りを続けます。相当な神経の持ち主であるに違いないと思える反面、強いものと同盟するということへの躊躇の無さからは、やはり力への信仰というものが伺えます。

頼朝が奥州藤原氏を攻めるのに宣旨を出してほしいと願ったときも、最初は出さず、藤原泰衡が打ち取られてからタイミングよく宣旨が届くというあたりもよくよく見計らってのことではないかと思います。

風見鶏と言えば風見鶏ですが、自分の力の源泉は紙の上に書く自分の名前だということをよく承知しており、かつ濫用せずに使いどころを見極めているというところは有能な「政治家」と呼ぶこともできるかも知れません。

しかしながら、同盟する相手がことごとく滅びていき、その都度、勝利者と同盟を結びなおしていく時の心中を思えば、殺伐とした、あるいは荒涼としたものを感じないわけにはいきません。もし後白河上皇が力以外のものを信じ、それを正義と呼び、その正義に殉じることを考えていたなら、歴史の舞台からもっと早く去っていたかも知れません。「信じられるのは力のみ」という信念の裏には自分の非力に対する自覚があり、それ故に怯えていたのかも知れません。そう思えば気の毒にも思えます。溥儀が日本であろうとスターリンであろうとどこぞの軍閥であろうと自分を助けてくれるのなら膝を屈するのも厭わないというのに近い心境だったのかも知れません。





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